ばんだい号(東亜国内航空)遭難

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 昭和四六年、一九七〇年代といわれ、日本の経済も文化も躍進していた。 
 七月三日、東亜国内航空ばんだい号が墜落、札幌出張中の米田町長が遭難(殉職)。ニュースは、町はじまって以来の衝撃的な事件として、関係者、一般町民を問わず、全町的な悲しみの中で捜索がすすめられた。
 十数社の報道班が南茅部町に駆けつけた。山だという者、海に墜落しているらしいという情報、泣面山に機体の一部らしいものが見えると、全捜索隊が泣面山に向かったが機影は……。
 憂慮と焦燥のなかで、夜になって横津岳に機体発見のしらせが入る。絶望のなかで関係者は七飯町にかけつけていった。
 遺体の悲しい帰宅、そして町葬の執行。尾札部中学校の体育館は、千余の弔問、参詣者で埋まった。
 時間を経るごとに、急逝した米田町長の人柄がしのばれて、下池町議会議長が発起人となり、期成会がつくられ、追悼録発行が計画された。荒木恵吾らが編集を担当した。題字「追頌」は元知事、町村金五の揮毫になり、翌昭和四七年一一月三〇日付で、B5判一五二頁の追悼録が発行された。