昭和四三年の生産実績は、促成コンブは試作品とみられ、半分が四等に格付された。生産価格は天然コンブの七〇%と決められた。
昭和四四年、自己資金による企業化へと踏み切った養殖事業は関係機関の注目を集めてすすんでいった。
この年、道や水産庁、大阪のコンブ商社など、養殖コンブの視察が多かった。
秋になり、川汲漁協の促成養殖コンブの初収穫と初出荷がされた。天然コンブ、三・七五キログラム(二〆)六、三六一円。養殖コンブ、天然コンブの七掛 四、四五二円。
昭和四五年一月三一日、来襲した低気圧台湾坊主は、養殖施設に被害を与え、養殖漁業に大きな教訓を残した。
養殖コンブの水揚げで町内は賑わった。前年から養殖コンブにヒラハコケムシが大量に発生して、漁家はその対策に苦慮することになる。
この年の生産は、目標の六七%だったが、促成コンブは三等以上となり、共販扱いとなる。価格も天然コンブの八〇%で販売され、企業化は立証された。
養殖コンブの課題は、変形コンブを少なくし、実入りを良くすることであった。漁業者が指導されているように、制限本数を保持することである。
同年、尾札部漁協は補助事業である二年もののコンブ養殖に確信をもち、企業化を実施した。養殖部会の協議のなかで、二年養殖と促成養殖の二本建を併用された。
臼尻漁協は、コンブ養殖漁業を開始した。