網造り

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 (1)納屋おり
  「納屋おり」してから一か月の間に、役所の許可をもらい山に入って蔦ものとりを三日も四日もやる。
 昔は網を固定しておくためにシカリ篭を多く使った。蔦ものを採って篭をつくる。
 次は、かごに入れる石集めをする。船着場のいいところで石集めをする。八木の角石から石を背負い出してクロワシに集めて、干潮でも船を横付けして積み込んだ。
 肝心な場所に藁網を使えないので、蔓ものでネオというものをつくって使った。
 
 (2)網仕立
 鮪一方(専門)の網で、メン糸のない明治の頃は手網も胴(どう)網も藁(わら)網で仕立てた。
 明治末の網の長さは七〇間から一〇〇間ぐらいで尺目の網、二寸五分目の機(はた)で織った細目(こまめ)の網を使った。建揚(たてあげ)にはハナ織りも作った。網は実子繩で編んだ。
 昔の大謀は藁の網専門だから、網は相当使った、太いのは太いの、細いのは細いので場所によって使い分けた。手網の陸(おか)側には五尺目、七尺目を使った。
 一脇(いちわく)だと本当の沖目だ。三尺目から二尺目を使った。徐々におか(陸)にき次第、網目が大きくなって五尺目も使った。手網一脇、二脇、三脇、陸側になると七尺目という荒目(あらめ)の藁(わら)繩を使った。
 胴網は、細(こま)目の網を使う。手網は、三〇〇間で六尺目を使い口目で五尺目だった。ヨドリ引きは網の目にすれば三寸目で、それより細い目は機(はた)で主に建揚(たてあげ)に使った。建揚は、オリ網という細目と実子繩を使った。建揚は、ワラの実繩で編んだ。
 敷に使う網も側に使う網も漁夫が作って仕立てた。
 鮪は、群遊する魚で一度にたくさん入るので、口を塞がなければ逃げてしまう。鮪の時季になると口網をつける。口網は尺五寸ぐらいの細い糸で強い網をしいて作る。網に入った鮪を胴網に入れて捕獲した。

明治後記から大正期までのマグロ大謀網

 (3)ヤツ胴
 その当時、明治の末にはタマリで鮪をとるということはなかった。
 小魚を余分に入るのを下の方のヤツ胴を利用して小さいタマリをつけた。
 ヤツ胴は楢の柴か漆の柴を山採りした。ヤツドウ柴を組んで二〇間位の大きさのものをつくる。
 海に入れると五人や一〇人乗ってもヤツ胴は沈まなかった。
 網を起こして鮪を舟に揚げるときには、ヤツ胴の上に三、四人も飛び乗って鮪を逃がさないように網を高くあげた。ヤツ胴は一年きりだ、保管できない。建揚の大きさによってもちがう。
 
 (4)エダ屋の鮪網
 エダ屋の漁場は八木川の右岸に番屋と納屋、船倉があった。
 明治四〇年ごろの飯田屋の建網は、今の㊆村上の網より一〇〇間オカ側で沖網二一尋、オカ網一三尋の二か統あった。秋一一月いっぱいで切り揚げる。
 今は尻尾(しつぽ)のついた魚であれば何でも金になる時代だが、昔の大謀網は、鮪一方の建網だった。
 エダ屋の漁夫は村中から選り抜いた優秀な漁師ばかりで、大船頭は野村由太郎、松田金太郎であった。
 五月、六月かけて鮪が群来する。七月は、土用鮪といって一度は必ず回遊してくる。九月以降は秋鮪といった。秋一一月いっぱいで切り揚げた。
 
 飯田屋漁場の歩方であった吉川菊蔵(明治二七生)は、鮪は五〇キロから八〇キロ、大きいものは二〇〇キロぐらいの大きな鮪を何百尾と漁獲した。ひと起こし三〇尾や五〇尾は普通であったという。
 漁獲した鮪は、かならず一度、八木川の川尻に入れる。八木川の川水は中流で砂洲の底をくぐりぬけて流れる。この海岸で一番冷たい川水だから、八木川に入れた鮪は、市場に送ると他所の鮪より高値に売れたという。
 川汲共同網の鮪も川汲の川尻に入れ、他より高価を保ったという。それぞれに地場の魚や産物を誇示したきらいもある。
 捕獲した鮪を川水に入れて血を脱(ぬ)き、鮮度を保つのは、むかしからの漁師たちの知恵であった。八木川にかぎらず、川汲川にも、大船川にも、マルテの川も捕った鮪は川尻に入れてから馬や船で運んだのである。
 
 (5)網起し
 鮪網の起こし船に乗り組む漁夫は、艫から舳先までひとりひとり役割がきまっている。威勢のいい鮪を獲る勇壮な網起こしは、やりなおしのきかない真剣勝負である。
 口網の持符舟は三人乗りで、上・下の網を懸命に引き、口あみをあげて口を塞ぐ。網の口を閉めると急いで網を起こす。
 起こし舟は二艘で、三艘ということはなかった。昔は下の方から(東から西へ)網を起こした。
 捕った鮪はどんどん陸へ運び、かならず八木川に一日は入れておく。冷凍・冷蔵の方法のなかった頃、八木川の冷水に入れてその保存を図ったものである。
 
「大正一四年、川汲山道の自動車道路が開通の日だった。鮪の時季だったから、その日は番屋に漁夫だけ残っていた。招旗(まね)が揚がり鮪の大漁だ。晩、暗(くれ)ぐなるまで沖揚げだ。手伝人(てつだいと)がいない。今のように発動機船もない頃だったから、オシュコイ、オシュコイと漕いで沖の網までいく。網を起こして鮪を海岸に揚げて、揚げ切らないうちに次の招旗(まね)が揚がる。何回も往復して漁夫は皆倒れでしまった」と、松村政太郎(明治三七生)は語った。
 鮪の大漁で尾札部から村中人足に総出で応援にいった。噴火湾といっても、今は中鮪程度で昔のような大鮪はとれなくなった。
 
 (6)甲羅船
 定置網の朝起こしから晩起こしまでの間は、網のある海上で覆いのつけた小舟で魚群を見張っている。この魚見舟を「甲羅かぶり」と呼んだ。
 甲羅かぶりは普通ひとりで、経験豊富な老漁夫が当たり、「甲羅船頭」と呼ばれた。水や沖重鉢(じゅうばち)(沖弁当)を積み込んで、終日気を許さずに海中の網の見張りをつとめる。
 二人乗って魚の入るのを見張るときは、交替で見張ったという。魚影で判断して鮪が網に入ると、甲羅船(魚見船)の招旗が揚がる。
 招旗は、大きい鮪が入ったときは櫂の先に一枚の筵をさげて大きく振って陸の漁場に合図を送る。小さい鮪のときは半分の筵。オンバ鮫であればドンジャを揚げて陸に合図をする。漁場(番屋)はそれを見分けして、準備して舟を出す。
 
 (7)藁  網
 藁網は弱かったが、網のところで向きをかえる鮪の習性には効果があった。
 漁期間中に二、三回も入れ替えるくらいで、時化で損傷しなければ入れ替えしなかった。
 藁網の時代には、時化ると網はこわれるものと観念していた。網が流されたときの用意に、予備網というものを持っていた。予備の網をいつも持っていたのは〓徳田漁場である。外の家は、網がこわれてから函館へ買いにいって作るから漁期を逸してしまう。〓は資力があるので、早め早めに入れ替えるので、時化にも強いし、被害をうけてもすぐ新しい網をいれて漁獲を得ることができた。
 
 (8)船送り
 八木川の河口は今より内側に流れ込んでいて、今の尾札部郵便局の前浜だった川尻は大きな沼のようになっていたので、何百という鮪を入れることができた。
 八木川の水は冷たいので、八木川に入れた鮪は川崎船で室蘭に送ると一文高く、酒一升もらったものだという。
 川尻に入れた鮪のひれにカラスが止って、鮪を突っつこうといくらやっても嘴は届かなかった。
 下風で風がいいときは、室蘭まで川崎船で四時間半で航海した。しかし、帰路は下風で走らないから櫓を押さなければならないから大変だった。四、五人乗りで、一航海ひとり五円の配当になった(米一俵七円の頃である)。
 函館への海路は、恵山までは北の風で走りやすいが、岬をかわすと逆になる。戸井の汐首沖は汐がはやくて大抵下り汐なので、岩にぶつかるぐらい灘をゆく。
 黒鷲、〓の爺さんは川崎船を所有して、専門に室蘭へ帆送していた。
 だんだん交通の便がよくなって、昭和に入り鮪の時期になると、氷を積んだ冷蔵船が回航していて、漁があると積んでは走った。