尻戸廻(しどまわし)網漁

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 尻戸廻は、尻戸間差(しどまさし)ともいわれ、鰮の地曳網の操業のとき、大網から漏れる鰮が多いため、大網の後方に差回してこの魚群を漁獲する小網漁のことである。
 尻戸廻の権利は、特に官庁や漁業組合の許可はいらないが、大網の漁場主から許されたものに限られた。
 網は捲き胴(カグラサン)と大勢の人の力で引き、網を寄せる。
 とりあげた鰮の魚群を、釜炊き場の近くの魚坪(なつぼ)まで運搬するのは主婦たちの役目で、木製のモッコ(木籠)で肩に担(かつ)いで運んだ。鰮の旋網のときも、モッコ背負(しよ)いは、鰮漁に伴う集団労働であった。
 鰮釜と呼ぶ大きな釜で鰮を煮て、金胴(昔は木胴)に入れ、ジャッキで圧搾する。水分とともに油をしぼりぬき、〆粕をつくる。魚油は樋(とい)で油槽に貯め、沈澱させて良質の魚油を「油汲み」する。魚油はブリキの石油缶に入れて検査をうけ、函館の海産商に送った。
 胴で圧縮した円筒型の魚粕は、玉粕ともいう。晩秋から冬中、春までかけて粕干(かすほ)しをした。浜(干場)いっぱい玉粕を砕き、むしろにひろげて干し、干し上げると「たてむしろ」の大俵に詰める。建一本は四〇貫。
 函館へ送り、委託販売の仕切り(精算書)がくると、歩方の総精算となる期間の長いものである。
 
  (2)鰮地曳網の旗印
 篠田順「臼尻沿革誌」に、明治三〇年、臼尻村は鰮地曳網について規約を設け、漁業者の旗印を次の色別に定めたと記している。

明治三十年規約励行上鰮地曳網営業者間ノ必要アリテ特ニ約シテ各其旗印ヲ定ム

 
  (3)尾札部村の地曳網  吉川菊蔵(明治二七生)談
 尾札部の鰮(地曳網)は、〓秋本と、〓内藤・〓秋本の漁場があった。舳(みよし)の高い三半船で漁をした。
 尾札部の澗は、岩礁(ねつこ)が多いので曳網の操業に適したとはいえなかった。しかし大群来が寄せるので漁をした。八木浜(八木川の河口の両浜)は、飯田屋と㋵今津の二か統があった。
 鰮漁の最盛期には、村中挙げて操業した。あまり沖出しをして回すとタガネ(高礁)いう岩礁に引っかけてしまう。大体、七尋半から八尋ぐらいの水深のところがタガネの難所である。ネ(岩礁)に網を引っかけると、網を外すのに潜るのが〓飯田の親爺が専門だった。
 シノチュウ(一漁期)六〇〇玉(魚粕の玉数(たまかず))だの八〇〇玉も獲った。
 魚見の小舟で鰮の魚群を見つけると、櫂を高く差し上げて陸の漁場に合図をする。合図の方法で、どこの漁場が魚群を見つけたか互いに分かる。
 招旗(まね)があがると、その漁場の漁夫は大急ぎで胴船さ走る。ゴロを並べる。早く、早くと大きな船をおろして、二五人ぐらいの漁夫が乗り込んで、懸命に漕ぎ出す。
 ヤサコイ、ヤサコイと地曳網を掛け(投入)していく。八木の澗で、先に網をかけていく。直ぐ後ろが空くから他所の漁場の網が入っていく。その後にまた投入するという状態になる。
 〓秋本の漁場の船頭は、〓の親爺、飯田屋の漁場は〓飯田市太郎だった。弟の辰三郎も船頭した。
 ㋵今津の漁場は、今津常治の父親が永年船頭を勤めた。
 網の大きさは、秋網だと三四〇間、深さ八反。下敷(したじき)を付けて九反ぐらいの深さ。正目は今でいう八節(はちふし)だった。

明治後期尾札部村の鰮地曳網絵地図