亀田村湯川村のように多くはないが、郷土の漁家から早春、上(かみ)場所とよばれた江差・岩内・古平・浜益・増毛地方の鰊漁場への出稼ぎする者があった記録がある。
仮りに臼尻村嘉永人別帳と名づけたこの文書の断片は、豊崎の〓吉田覚太郎翁(明治三〇生)から寄贈された古書籍「積玉古状揃大全」の表紙から発見された。貼り合わせた和紙を剝がしてみると一連の覚書(おぼえがき)がでてきた。明治以前の村人の異動は、会所や寺院に届出る定めになっていた。これを嘉永と判じたのは、一一番目にある「丑九月十五日、〓直蔵帰参(略)頭取家より申越し候由に而(て)」とある一条である。頭取とは東出屋多五右衛門であり、その三男直蔵は天保三年(一八三二)の生まれで、〓東出家の祖父である。成年期の丑九月は、嘉永六年癸丑(一八五三)となる。直蔵は満二一歳に当たり、旅に出歩いて差支えのない年齢である。また、出向きの地名が、アブタ、イワナイ、シッツ、ヲタシツ、シマコマキ等といわゆる鰊漁場の地名であることから、この人別帳のほとんどが、鰊場出稼ぎの人別覚書(おぼえがき)であろうと判じた理由である。
人別控 (臼尻村〓吉田梅太郎文書より)
六月廿八日
一 アブタ出稼所江 当店 和□□壱人
用事有之 立帰リ候
亥九月・日(辛亥嘉永四・一八五一)
一 御城下迄用事有之・立帰リ候 熊泊リ又五郎忰
菊 松 壱人
□□八日
一 イワナイ御場所江 熊泊リ御百姓
子五月迄(朱書)子九月十九日切手書替 靏 松 壱人
一 イワナイ御場所江 熊泊リ御百姓 米 松
子五月迄(朱書)子九月十九日切手書替 も 登
〆 弐人
子七月十九日(嘉永五壬子・一八五二)
一 西地シッチ御場所出稼帰リ 臼尻御百姓 多之助
一 西地シツチ 御場所出稼ゟ帰リ 臼尻多之助忰 松 蔵
子九月
一 江差江用事有之・・ 候・ 熊泊リ藤七弟 岩 松 坊
丑八月三日
一 上方参リ願出 臼尻長兵衛姉 は ツ 壱人
右者 □印参ニ而
箱館沖口江切手ヲ・・上仕候
丑九月十五日
一 ヲタシチ江用事有之 熊泊リ御百姓 兼 松 壱人
一 シマコマキ江用事有之 熊泊リ御百姓 粂五郎 壱人
一 丑九月十五日晩一中直蔵帰参ニ而源作モ・・
頭取家ゟ被申越候由ニ而
覚
(黒印)
一 □□村方平三郎方三男源五郎當村
御百姓源作方江養子ニ貰請候間其人別
御除此方御送リ御□□□成候□願出ニ付
依而如件 臼尻
頭取 多五右衛門
癸丑(一八五三)
嘉永六年 □印ニ付□□
丑九月十五日
□□家村
御役所御家中
丑九月十七日 熊泊リ勘五郎妹
一 箱館江 出稼 婦(ぶ)ん 壱人
一 箱館江 出稼 熊泊リ治 家内
〆 ま ん 壱人