全盛を極めた前浜沖のイカ漁が急激に凶漁化へむかうと、イカの魚群を追って船団を組み、道東方面への進出がつづいた。しかし、道東の漁船や本州船との規模や設備の優劣が問われがちだった。そして道東イカの漁が不振になるという悪条件下のなかで、漁業者が求めた活路は、昭和三〇年代後半の所得倍増政策に伴う本州方面の建設工事労務者としての出稼ぎであった。
百年も二百年もつづいたニシン漁場への漁期だけの出稼ぎは、漁師が陸(おか)に上がって、地下鉄工事に潜り、ダム建設に転進する時代に移っていくのである。郷土から北へ行った出稼ぎが、海峡を渡って南へ行く出稼ぎする変化の時代に入った。
昆布採りが終わると、秋のイカ漁のできない前沖の漁業に望みを失ない、漁業の人たちは、本州の工事現場へ向かった。昆布仕事が終わり正月が過ぎると千人以上の人たちが毎年出稼ぎに海を渡った。四月の漁場の始まるまでに帰る人もいるが、多くは昆布採りに間にあうように、六月いっぱいの期間での季節労働者としての就労が続いて二〇年余りも経っている。
昭和四一年一月一七日付の北海道新聞に、出稼ぎによる影響について次のような記事がある。
ふえる出かせぎ 南茅部町 消防力低下など心配
昨年コンブ、イカ漁とも不振に終わった南茅部町では、新年早々から出かせぎに出る人がふえ、このところバスの発車のたびに肉親と別れを惜しむ光景があちこちの停留所で見られるようになった。昨年暮れ、期待の後採りイカもさっぱりとれず、正月を待たずに師走の故郷をあとに出かせぎに出た若い人もあったが、さすがに正月だけは肉親がそろって迎えようとあって、松の内が明けた八日ごろから集団で出かせぎに出る者が目だってきた。
昨年同町から職業安定所を通して出かせぎに出た者は約六百五十人。このほか縁故や知人の紹介などで出かせぎした者が三百五十人は下らないだろうとみられている。
昨年は、男は東京や愛知などの土建業関係、また娘さんたちの出かせぎはおもに道東方面の水産加工で、このほか四月中旬には約八十人の娘さんが毎年喜茂別のクレードルかん詰工場に出かせぎする。
町役場では“ことしもおそらく昨年なみの出かせぎ者が出るだろう。現在スケソウ漁が比較的よいので、この程度だが……”と、七月中旬のコンブ採取期まで町内の若い人たちが出かせぎに出たあとの消防団の組織力の低下など心配しており、また、同町から二、三年前に本州方面に出かせぎに出たまま消息がない者が三人もおり、出かせぎ問題は同町にとっても悩みのタネとなっている。
出稼ぎに出発
季節労働者
[季節労働者]