バッタ発生の被害

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明治一六年六月の函館新聞第八七〇号に、○バッタ「茅部郡落部村、尾札部村等へもまたバッタが発生し、大きさ三分位ゐ(鯨尺か)もあるという」と報じられている。
 精進川野にバッタの大群が飛来した記事もある。
 明治一三年八月、胆振・石狩などの開墾地にバッタの大群が襲来して、農作物に大損害を与えた。未開の原野であった十勝に大発生したバッタの大群が、日高を通って胆振へ、そして石狩に飛来してきたものだという。
 一一月「〓螽駆除法施行順序」というものを定めて、虫卵の孵化を防ぐため、野に火を放って幼虫の駆除法などを講じたが、絶滅することができなかった。
 以来、毎年夏になるとバッタの大群が発生して襲来し、開拓農民に大打撃を与え、開拓事業の前途に暗影をもたらしたという。
 明治一七年は長雨が続き、このためバッタの卵が腐敗して孵化できず、大減少して大発生がようやく停止したという。
 この事件は、多くの農業専門家を奥地深くへ送る結果となり、十勝平原の存在を知らせることとなり、その後の十勝平原の開拓を促進させるために役立ったという。