農地改革の一考察

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敗戦後の日本民主化のなかで、最も顕著な例として挙げられるものに、憲法改正、戦争放棄、徴兵制度廃止、民法(新戸籍法)教育の男女共学等々がある。すべて占領軍の政策だという人もいる。日本の社会を支えてきた封建制、天皇制、軍国主義の否定であった。なかでも農地解放は決定的な封建制と土地資本への否定であった。
 長い間、大きな土地を所有して高い小作料をとりあげていた大地主をなくして、貧困に喘いできた農民を独立させた農地解放は、戦後日本の唯一最高の施策であったともいえる。農村の多い日本にとって、おそらく最大級に歓迎され、農村社会を一挙に変えた歴史的な転換でもあった。
 北海道にも大地主はいた。不在地主もいた。小作農もあった。だから農地解放は実施された。
 詳細な記録はないが、尾札部村でも、臼尻村でも、戦後農地解放によって農地を失った地主もいたし、農地を得た人もたくさんいた。
 疑問がのこるのは、万畳敷と白井川農耕地、大船開拓地のほか、僅かな専業農家以外に、南茅部町に本当の意味で農家があっただろうか。小作農がいたのだろうか。
 農地を貸して、そこから挙がる収入で生活していた地主がいたのだろうか。裏返えせば真の意味で地主から土地を借りて、小作料を物納または金納して生活に苦しんでいた小作農がいたのだろうか。
 戦時中、食糧増産のために、僅かな土地を借りて家庭菜園をやって生き抜いてきた。畑のない人に同情して貸した土地所有者もいた。立木のあるところを伐って貸した人もいる。戦争に敗れて世の中が変ったら、土地を借りた人は小作人だったという不思議な実相もないわけではなかった。
 そして同じ法の適用の中で、農地解放が実施されたという事例が多かった。時勢のなすがままということであったのかもしれない。新しい農地法のもとで昔のような地主と小作が果して生まれるものなのだろうか。統計調査の中で「小作」の項が未だにある。不思議である。
 郷土は開村のはじめから半農半漁といわれていた。半漁漁家が漁した海産物を売って生活の資金としたからである。半農は半漁でたりない食糧を自給自足してきたからではなかっただろうか。生活資金を農業と漁業から半分ずつ得ていたのではなく、漁業収入の不足分を自賄いしていたという意味での半農半漁であったからである。
 農耕はあっても農業に至らなかったともいえよう。
 南茅部に小作人がいたのか、南茅部に農地改革があったのか。それは正当だったのかを問い訊すことも歴史のひとつであろう。