原野の総面積は 三、〇〇〇ヘクタール
南茅部町万畳敷区域 一、九五〇ヘクタール
函館市城岱区域 一、〇五〇ヘクタール
かつて、千古の原始林におおわれていたが、明治三七・八年熊泊硫黄鉱山の開業に伴い、杭木、建材、燃料などの資材として万畳敷の原始林はその原木供給源となり、僅か十年たらずで伐りつくされたという。
道有林、万畳敷模範林地区は、大正五年、農耕地として解放され、五〇戸余りが入植して開墾した。大正一二年、磯谷野や大船川支流のガロー川・白井川の低部山地に移り、再び林野を切り拓いた。
昭和二年には農業もその経営が軌道にのったやさきの昭和四年六月、駒ケ岳の大噴火にあった。汗を流して切り拓いた畑地が、一夜にして降灰のため深い砂礫に埋没してしまった。再起を断たれた農耕地の人びとは、旭川郊外辺別(べべつ)村共有地へ、三度(みたび)移住をした。そそり立つ泣面山の南に広がる万畳敷高原は、悲願ともいえる農耕の秘史を残した。
万畳敷から泣面山を望む 昭和60年9月