郷土の養蚕業は、明治一〇年前後から開拓使が奨励につとめた。官業の事業所が計画されて漁家の副業としても養蚕を奨励したのが始まりである。しかし、漁があるときはすべてが漁業に集中したので、副業として漁家の収入を補助するまでにはいたらなかった。
明治の末から大正にかけて、養蚕をとりいれていた漁家は、臼尻村・尾札部村あわせても一〇戸に満たなかったが、自家用の真綿に用いる程度の養蚕は細々とつづけられていた。
昭和のはじめ国内経済の不振は、直接、漁村の経済に影響を与えた。そして駒ケ岳噴火は沿岸昆布礁に大きな被害をもたらし漁家の経済に不安がみえた。道庁は村役場を督励して、漁村経済の再建のため各種の副業を導入することにした。そのひとつに、養蚕業が再び大きく脚光を浴びることになった。