鉱山の内部対立

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開鉱した熊硫黄鉱山は、初期において銀主服部半左衛門と鉱主小橋栄太郎との利益配当や増資問題などで不和が生じ、鉱区を二分するに至った。また、硫黄鉱山開業のために当初から好意をもって協力した熊村とも感情的な対立をひきおこし、その後、鉱主の交替があったが、鉱山と熊村民との対立が永く続いたため、鉱区長は鉱産の成果よりも部落問題で腐心する余り任期が短かく、六ヵ月鉱区長といわれたという。(臼尻沿革誌)。
 鉱区を二分した小橋は、函館のハウル社を銀主として経営を続けたが、先の銀主服部は、間もなくその経営を断念して、僅かに二千円を返済させただけで折半の鉱区を小橋に任せて鉱山との関係を一切絶つに至った。
 明治三八年一二月、小橋は鉱主権を遠藤吉平に譲渡した。鉱主遠藤は、熊硫黄鉱山の経営をハウル社長ジンエイ・ウィルソンに一任した。
 明治三九年、ハウル社は事業を拡張するため、鉱夫を増員し製錬竈五〇枚を増加し、駄送馬車に改めたので、熊鉱山は初めて盛況をみるに至った。
 この間、鉱山事務所では、地元熊部落との融和を願って度々地元の臼尻村役場をたずね、加藤、浅野戸長は両者の和解をはかったが地元との溝は深く容易にしこりは解けなかった。
 明治三九年一二月、上野村長が着任以来、前芝鉱長と浅田某ら鉱山事務所側との交渉がつづけられ、熊部落もまたようやく和解の意思を示したので、四〇年四月二六日、鉱山関係者と熊部落代表は、同村〓高谷旅館に会合して、開鉱以来の物議を水に流し今後両者の協力を誓い大懇親会を開催した。