【資料】鱈肝油製造所のあゆみ

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 明治元年函館の医師五藤精軒が、鱈の肝油製造を試みるため、明治新政府の函館裁判所に、鱈場所として知られる六か場所の村々より、相当の価格で鱈を買い集めることを請願して許可を得た。
 早速、病院係を派遣して鱈を買上げて肝油の製造を試業したが、まだ製法の研究が進んでいないため純良の品を得ることが出来ず、間もなくこれは廃された。
 その後、再び医薬品として鱈の肝油を製造することの要望が強く、開拓使は明治一〇年二月、専門の委員渡辺章三を東京から招き、七重勧業所御用係として任用して臼尻村に派遣、鱈肝油製造所を建設して肝油の精製に当たらせた。
 三月、この製品を内国勧業博覧会に出品して好評を博し褒状を授与された。
 四月、鱈の肝臓から精製した肝油を衛生局に送って、成分などの試験分析をした。そのときの肝油分析書を次に掲げる。
 
    肝油分析書
     反應
  此肝油ハ帯褐黄色ニシテ澄明ナリ。二容ノ「エーテル」ニ全ク溶解ス。亜爾個兒ニ溶解セズ。一種ノ臭気アリテ通常舶來ノ上品ニ比較スルニ稍甚シトス。而シテ硫酸及「エライチン」ノ試法ニハ良反應ヲ呈セリ。又硫化酸素ト硫酸ニテ處スルニ仝ク良反應ヲ呈セリ。依テ此肝油ハ醫薬ニ適スルモノトス。但臭気稍甚ニハ其製造ニ用フル所ノ肝臓新鮮ナラザルニ因ルガ後來之ヲ多製セントセバ宜ク此ニ注意シテ新鮮ノ肝臓ヲ撰ミ製スベシ。然ルトキハ必ズ輸入ヲ防ニ足ルベシ。
 
 幾分臭気があるとの評があった。しかし、研究改良の結果その年の一一月に衛生局に送った製品は、品質がすぐれていたので衛生局は舶来品に劣らずと絶賛するに至った。
 
  透明帯黄色ノ油ニシテ比重〇・九三ナリ。「但シ摂氏十五度」試験ニ中性ノ反應ヲ呈シ同容ノ「エーテル」ヲ加ル。半透明ニシテ倍量ナレバ全ク透明トナル。濃硫酸ヲ適スルニ紫色ヲ呈シ後チ赤色ヨリ褐色ニ變スニ、硫化炭素十九滴肝油一滴ヲ混スルニ透明液ヲナシ之ニ硫酸一滴ヲ滴スレバ極メテ美紫色ヲ呈ス。「エライヂン」反應良シ。以上ノ試験ニ由レバ其品舶來品ニ譲ラザルベシ。
 
 国内も遠く九州の医局からの譲与を依頼するものも多くなった。
 臼尻の製造所では、鱈釣りの漁期になると漁民を雇傭して沿岸の鱈を買い集めて製造に努めたので、事業は全く軌道にのり開拓使は大きな望みをもった。
 明治一二年、開拓使事業として作業費条例を適用して各村々に普及する計画をのせた。
 明治一三年には臼尻の外川汲尾札部、木直の三ヵ所に費用一、〇〇〇円をもって製造所を築設して、鱈肝油製造の振興をはかった。

(表)

 この四月、去る明治一一年にフランス博覧会に出品した臼尻の鱈肝油は、当会出品中でもとくに賞賛を得て銅牌一個が送り届けられた。製造研究に当たった関係者の喜びは大きかった。
 しかし、明治一三年秋から一四年春にかけて鱈の漁獲が振わず、原料の鱈を集めるのに困難で、この年は収支償うことができなかった。
 明治一五年、尾札部村・臼尻村民六名から製造所の払下げの願出があった。官では、優良な品質を製造することを条件に製造所を分貸して、委員を派遣して品質の管理監視にあたった。
                                    「開拓使事業報告」第三編より