熊泊小学校の記録

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 六月一七日、熊小学校では午後零時半ごろから降石をみたので、学校付近の児童を急いで下校させた。三キロメートルほど離れた大舟川上流白井川方面から通学している児童は、白井川から馳けつけた父兄とともに下校させた。
 また、磯谷方面から通学している児童は、帰宅させることが危険なため、学校にとどめることとして家庭へ連絡のものを走らせた。その夜は磯谷の児童は学校に宿して、翌朝、危険のなくなったころ迎えに来ていた父兄とともに帰宅させた。
 六月一七日、熊消防組は、隣村鹿部村の災変を知るとともに、直ちに救援隊を組織して鹿部村に向けて出発したが、望路辺りで降石が激しくなり、前進することが出来なくなり、止むなく鹿部方面より避難してくる人たちを救護しながら引返した。
 急拠避難民の仮収容所を各所に設置してそれぞれ収容方を手配し、救護給食活動をおこなった。
  ケカチ浜 雲母目太郎方へ  五〇名
  磯谷第二発電所へ     二〇〇名余り
  同変電所へ        三〇〇名余り
  同事務所へ         三〇名
  熊小学校  一五〇名余り熊稲荷神社及び民家へ約五〇名余り
 六月一八日朝 前夜、熊小学校に収容した鹿部小学校児童二八名は、なお不安がつのるものが多いため、再び二里先の臼尻小学校に移動することとなり、臼尻覚王寺で朝食と昼食をとり、木直の佐々木常吉の発動機船で木直へ避難した。
 この日夕刻までに鹿部村から避難して来る者多く、覚王寺には六三名収容したのを始め、縁者、知人の家へ身を寄せる者は無慮千人にのぼったという。
 しかし、噴火活動のおさまる一九日、二〇日に至って、鹿部のわが家の状況が心配で老人子供を一時残す者もいるが、大部分は鹿部へ帰村していった。
 熊小学校・稲荷神社・熊説教所境内の降灰石排除のため、大字熊各戸より村民四〇三名出動し、救援隊を組織して七月六日より八日まで三日間、降灰石除去作業を奉仕。