昭和二九年、婦人会岡部キミによる季節保育所が婦人会館で開設された。夏から秋にかけての漁業繁忙期に漁家の母の惱みを解消するため、同じ婦人会の商店、サラリー家庭の会員(主婦)が、みよう見真似で開いた助け合いの幼児保育であった。
幼児をもつ漁家の主婦達からは大歓迎され、一日でも早く、一日でも長く保育を頼みたいという声があがった。
昭和三二年、川汲婦人会(会長井畠セツ)が季節保育所を開所した。婦人会だけの自主的運営から出発したので、専門の保母を頼むこともできなく、全く善意と奉仕による経営であった。まず、開設の建物もなかなか見つからない。旧温泉旅館であった芽の湯の空き家を借りる。保育所後援会を結成して運営開所のための基金あつめをする。
ようやく九月初めから開所をする。一三〇名余りの幼児を三名の未資格の保母さんと、婦人会の役員の奉仕での運営である。
遊び道具ひとつ揃っていないなかでの毎日の保育である。小学校から紙芝居を借りてきてみせる。雨がふると古い建物のあちこちが雨もりするので、バケツをもって保母さん達は走ってあるいたという。子ども達に一番人気のあったのは、婦人会の役員で毎日おやつを袋につめて背負って来るおやつのおばさん佐藤縫子さんだったという。
川汲婦人会が保育所の一三年のあゆみをまとめた「大きくなあれ」に、生なましくその苦労と喜びが記されている。
昭和三七年、安浦婦人会(会長井上千代)は、白旗青年会館で季節保育所を開設。
昭和三八年、尾札部婦人会(会長近藤リセ)が、旧磨光小学校校舎で季節保育所を開設した。
昭和四三年、川汲の保育期間が五月から開所、一〇月三一日までとなる。
同四三年、木直母と子の家が町内会の自主財源で建設されたのを機会に、町内会(会長今川幸四郎)、婦人会(会長汐谷光枝)による季節保育所が開設された。
昭和四五年、古部児童館が落成し、春から保育所が町内会(会長前野松蔵)、婦人会(会長山川ヨシエ)による自主運営で開設された。
大船婦人会(会長金沢千代)、季節保育所開設。
昭和四七年、磯谷生活改善センターの落成を契機に、町内会(会長川村兼夫)と婦人会(会長佐藤フジエ)の協力で、磯谷の季節保育所が開設された。
趨勢として婦人会は季節保育所開設が、会の一大事業ともなっていった。母親同士の助け合いという善意で始まった季節保育所は、前浜のイカ漁も少なくなり、移動販売車による買い物ができるようになり、畑仕事が少なくなっても幼児教育への要望が高まる一方であった。
保母も有資格者をという声が高まり、婦人会だけの力による保育所の運営は町内会の協力、むしろ町内会運営への移行が強く望まれて、町の助成も本格的に考えられていくことになった。町は施設の整備、保育料の町内同一額、有資格保母の確保などを計画的にとりあげることになった。
昭和四九年より尾札部と川汲が合同して尾札部保育所として運営されることになり、川汲婦人会による季節保育所は、一七年間の輝かしい歴史を終幕した。