戦争に敗れて、食糧物資も乏しく、窓ガラスに板を打ちつけ、昨日までの軍国教育を民主主義に置きかえても、学校は子ども達の教育の場であった。乏しいなかで、占領軍の指令や新しい教育方針が次つぎに通達されてきた。戦後、学校が最初におこなったことは、空襲被害をうけた校舎の修理であった。とにかく応急の仮修繕である。疎開児童は都会の方が落着くと帰っていったが、千島や樺太からの引揚者の子弟が転入してきた。しかし、食糧事情の悪化のため、町から赴任していた若い教員は退職・転任していった。戦地から復員してきた教員が復職して教壇に立っても、郡部の辺地の学校は教員不足の時代が永くつづいた。教員の俸給では生活ができないからであった。
教室から軍国主義的な掲示板などのとりはずしである。学校の象徴的存在だった奉安殿(奉置所)も撤去された。教科書や辞典など、戦争・軍事に関する文言を墨で塗り潰す作業も大変だった。
翌昭和二一年四月には、国民学校から、もとの小学校の校名が復活した。物資が乏しくても学校教育に自由が蘇えり、活気があった。やがて教育制度の改革によって、新制中学が発足した。保護者会は「父母と先生の会」PTAと変わった。