アララギの歌人として知られる。
庁立函館中学校に学び、昭和二年卒業した。卒業後は郷里に帰り父の経営する地元仲買業・米穀商を手伝った。中学時代から文学に親しみ、短歌誌アララギに投稿した。アララギ昭和三年四月号に内藤米雄の歌が掲載されている。
別れ来て恋ひつつあふぎ見る駒ヶ高根の雪のさやけさ
しかられし時は下むき指いぢるこの子守り子の心かなしも
(アララギ 昭和三年四月)
昭和四年、近衛歩兵第四連隊に入営した。東京の文化にも触れた。土屋文明に私淑、六年、除隊して帰郷すると一層文学に親しみ、万巻の書を求めて西田哲学やマルクス経済学を読み、流星吟社には蕗薹の名で参加した。
アララギには昭和一六年まで投稿を続け、昭和一四年四月号掲載のうたが講談社発行の昭和萬葉集に選ばれ、巻四一二二頁に掲載されている。
慰問文中途まで書き何か白々しき感情なりて破り捨てたり
戦後の北海道のアララギに参加した。斎藤茂吉に傾倒して昭和四九年、山形県上山市斎藤茂吉の歌碑除幕式に出席するのを最上の楽しみとしていた。
八木川のそゝぐ浦曲に鮪群来賑いしとぞこの地拓くる
月の夜の沖につらなる漁り火のほのかに恋うる人は遠しも
恵びす浜に月冴えわたり潮騒のあい間に聞こゆる沖揚のこえ
母校磨光小学校、尾札部高校のPTA会長や同窓会長、南茅部町監査委員を永く勤めた。
歎異鈔を愛読、もの静かな反面、強い反骨の意志を秘めていた。
昭和五七年八月、脳硬塞で倒れ、退院してから左手にマジックペンを握って歌をつくった。昭和六〇年一〇月、七六歳で没した。
内藤米雄自筆のうた