昭和一六年、独立した監視哨の設置が、軍と道庁の命令によって各村々に義務づけられた。
在郷軍人会支部会員、青年学校生徒、青年団員より身体壮健・品行方正のものを選抜して哨員(隊員)が編成された。
特別手当のような定められた勤務報酬は給与されていなかった。勤番の人たちの共同炊事用の米、味噌など、役場から支給されるだけで、特別に砂糖の特配をうけて「おしるこ」などの会食を楽しむ程度の待遇であったという。勤務は各村によって多少の相違はあるが、二四時間勤務で三班か四班編成で交替する厳しいものであった。
一班は六(八)名で、二名ずつ二~三時間ずつ立哨にあたる。男女ともに漁家の青年が多かった。
昭和一七年三月一二日、防空体制の再編成があり、沿岸各村は函館監視隊に所属した。
(1)尾札部村防空監視哨 (内藤米雄談)
津軽要塞司令官と道庁の指令により、渡島管内の各町村に監視哨が編成設置された。
昭和一五年、尾札部村の防空監視哨が設置された。監視哨は村役場庁舎の二階建の屋上に展望台を増築して開設した。
初代哨長は山中熊一(明治三五生)であった。
控室は役場の二階会議室が充当され、この控室で哨員は待機中休憩や仮眠をとった。哨員の出入口は村長公宅の玄関のそばだった。同じ井戸を村長の奥さんと使った。
電話は函館の本部へ通ずる専用のものを取付けてあった。
昭和一七年ごろより終戦まで 哨長 内藤米雄(明治四二生)
副哨長 杉林定吉(明治四二生)
〃 関口直蔵(大正二生)
のち、昭和一八年ごろ、役場裏山に監視哨を新築して移転した。哨舎の建設は全村の主婦の勤労奉仕で、土台の部分の掘りさげ作業など自力で完成。三間に三間の九坪、土手から二階部分が突き出るように設計した。
勤労奉仕作業のとき、内藤米雄哨長はお礼の挨拶に、「この地は当村の最後の砦である。(略)我々はここで死ぬ覚悟である云々」と演説したと内藤米雄哨長自身の懐古談を聞いた。
昭和二〇年七月、内藤哨長が応召をうけて出征したので、三代哨長に杉林定吉が就任した。
監視哨の服務は昼夜二四時間体制で、三名ずつ四班交替で組まれていた。
各町村の哨長が、札幌に梨本宮のおいでの折、お茶会によばれたことがあった。帯広の軍の飛行場へも研修視察に行った。要塞から度たび参謀将校が巡察のため来村した。
制服は軍服に準じて清潔に、規律を重んじた。勤務に対しての特別の手当はなく、勤務中の給食があるだけだった。時どき役場から砂糖や白玉が配給になり、女子隊員が手料理してくれた。内藤哨長の自宅で時折、しるこ会をやり、慰労のひとときをもつのが隊員の唯一の楽しみだった。
尾札部村防空監視哨
同(男子)
同(女子)内藤米雄所蔵
遠山茂談(大正八生)
村役場の二階の屋上に初めて設置されたとき勤務した。私は軍役の経験のない者ではじめて副哨長となった。四班にわかれて二名ずつ、一時間交替で立番に当たった。昭和一五年、徴兵検査をうけた。
葛西英司談(大正一〇生)
隊員は青年学校の生徒や青年団員から選抜された。服務規律はきびしく、勤務は二名ずつの交替制で、勤務中の隊員の給食費は村費で賄われた。
八木の〓坂本菓子店や目黒菓子店から砂糖や白玉粉を特に分けてもらって、特献をやった。
関口直蔵談(大正二生)
昭和一七年、数え年二七歳のとき副哨長として勤務した。昭和一九年に召集で旭川第七師団熊部隊に入隊するまでつとめた。終戦は札幌で迎えた。
監視哨は男子から女子哨隊に改組されたのは、昭和一八年である。
副哨長は吉川政雄、細井亀治、杉林定吉、関口直蔵の四人。哨員は週一回二四時間勤務で、二名ずつで二~三時間ごと交替し立番にあたった。時折、予告なしに津軽要塞司令部から巡察があり、勤務はなかなか厳しいものであった。当時詠んだ句に
哨員の伝言高し秋の空 郊葉
監視哨の建物は、村役場の真うしろの海岸段丘の高台に建設されていた。六畳の台所、一〇畳の控室、寝室は八畳間であった。控室と監視室との上・下は直立の梯子式につくられていた。
尾札部村防空監視哨哨員名簿
男子
哨長 山中熊一 内藤米雄 杉林定吉
副哨長 秋本 秋本 吉川政雄 細井亀治 杉林定吉 関口直蔵 遠山茂 葛西英司
森野庄司
哨員 坂井藤雄 杉林利広 杉谷正幸 小黒正一 坂本庄一 桑田隆太郎 西谷豊秋
佐藤克久 上川原久敏 佐々木清武 加我弥三郎 今津隆利 田村市四郎
白石美喜雄 須藤与一 寺岡俊一 佐藤昭蔵 飯田忠俊
〈資料提供・協力 葛西英司 関口直蔵 三条秀一 坂井藤雄 竹村慎〉
女子
哨長 内藤米雄
副哨長 中山勇二 三条秀一 柳川 富家
哨員 一班 秋本キミエ 棚谷よしの 能戸コノ 小中テル 内見キヨ 佐々木双葉
二班 飯田ソデ 内藤ヨリ子 飯田悦子 藤本美恵子 工藤良子 古館ミサオ
三班 西谷誓子 須藤フサエ 小板ツルエ 杉谷アイ子 沢中美恵子 村松浦子
笹谷 佐藤京子 諸井セツ子 〈資料提供・協力 森野悦子 遠山ヨリ子〉
(2)臼尻村防空監視哨 副哨長 魚住重勝談(明治四〇生)
昭和一五年に開設。哨長は在郷軍人陸軍軍曹村井治三郎(明治三五生)が任命された。
当初は村内の男子の青年から隊員を選抜した。
村井哨長に懇請されて、わたしが副哨長をひきうけた。戦争が激しくなるにつれて、男子は徴用や勤労報国隊に出動したり、軍人として出征したので、隊員を村内の女子青年から選抜して哨員にした。終戦近くにはすべて女子哨員だけで当たり、三交替制で二四時間勤務というきびしいものだった。
臼尻の監視哨ははじめ、横澗のすぐ裏山の突っ先に建設した。展望がよいので場所を選んだが、戦争といっても昭和一五、六年ごろはまだ、臼尻の周辺は平和だった。立番している哨員が眼下に臼尻の市街地を見下ろしているようで厭だという声があがった。
また、臼尻の船入澗の真上になるので、出船入船の騒音がひどく、立哨勤務に支障があるということもあり、まもなくうしろの畑の中(現在の臼尻霊園の辺)に移転することにした。
東出村長に資材の補給を頼んで移設が実現した。昭和二〇年春、船入澗に積んでいた用材を東出村長に頼んで貰い受け、〓の林の中に監視哨の防空壕をつくって出来上がらないうちに空襲をうけた。八月一五日、日本は敗戦となり、まもなく防空監視哨も廃止され、すべて解散した。
臼尻村防空監視哨(男子)川井金吾 協力 魚住重勝所蔵
臼尻村防空監視哨(女子)京谷レン子所蔵
京谷連子 談(大正一三生)
昭和一九年に帰郷して監視哨に勤務した。一班が七、八名ずつで、二四時間勤務であった。定まった報酬はなかった。当番で勤務のときは、各班ごとにそれぞれ米の支給をうけたので自炊した。
七月一五日の空襲の日、わたしは勤務当番の日だった。立哨していたとき敵機の空襲をうけた。機銃掃射は、コマザライで搔きまわすように弾が飛んできた。わたし達女子哨員は、監視哨の周りを逃げまどっていた。
昭和一九年、臼尻村有志一二名から特別寄付二万円をうけ、防空監視哨舎を建築。
三〇〇円 松山恒吉 東海一四五
二〇〇円 小川喜知三郎 東海二六二
二〇〇円 民谷元吉 木直一五
二〇〇円 加我藤太郎 東海二四五
二〇〇円 徳田和太郎 東海一六六
一五〇円 能谷喜久造 東海二六八
一五〇円 工藤幸雄 安浦八一
一五〇円 志寒漁業部
代表村井快助 東海一四六
一五〇円 北海鰮漁業株式会社 森町富士見町二九
一〇〇円 小川幸一郎 東海二三四
一〇〇円 小川喜知次郎 東海一八五-一
一〇〇円 張磨市太郎 安浦五二
五月九日付、臼尻村長東出快次郎より北海道庁長官坂千秋あて、「褒賞相成度旨」行賞上申、感謝状をうけた。
臼尻村防空監視哨哨員名簿
男子
哨長 初代 村井治三郎 二代 魚住重勝
副哨長 魚住重勝 吉田いく太郎 張磨たけお
班長 鎌田忠 田中貢 小助川正二郎
哨員 佐藤武司郎 小川潔 山田武利 熊谷勇二 川井金吾 成田勲 高谷敬之助
金沢京作 小川鉄太郎 金沢二男 西田重男 その他
〈資料提供・協力 川井金吾〉
女子
哨員 八木キヨエ 小川テツ 山田トシ子 山田クニ 中本レイ子 伊藤アイ 金沢京子
小川百合 川井サキ 京谷連子 吉田トミエ 二本柳京子 西田ハナ 魚住トヨ
小川春江 砂田キミ 鈴木 今 平山 二本柳キエ 中村京子 村井 村井るり
附田トミ 西田アイ 熊谷とし子 田中マツエ 山本豊子
〈資料提供・協力 京谷レン子〉
(表)渡島管内町村防空監視哨