〔郷土の言語教育〕

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 大正二年熊尋常小学校に赴任した佐藤充雄校長は、言語教育に力を入れた。
 佐藤校長は大正五年熊校から臼尻校へ、大正一〇年には磨光校へと、当時の臼尻村と尾札部村の五校のうち三校に一〇年間勤続して、学校教育そして成人教育、とりわけ青年教育に大きな指導力を発揮した。
 佐藤校長は方言矯正の第一に、一人称、二人称、三人称の呼び名をとりあげている。
 自分に対するオラをボク・ワタクシに。相手に対するナ・オメをキミ・アナタに、
  父  オットサン を オトウサン トウサンに
     オッチャ
     オドサン
     オド
  母  オッカサン を オカアサン カアサンに
     アッチャ
     カッチャ
     オガサン
     アバ
  祖父 ヂヂ    祖母 ババ
     ヂ
     ヂッチャ     バッチャ
     ヂッチャン    バッチャン
     ヂサマ      バサマ
をヂイサン・バアサンに、兄弟姉妹も名前を呼び捨てだったのを、ニイサン・ネエサンになど、まず家族の呼び方から形をおしえた。
 佐藤校長は、この三校で言語指導のため読本の朗読訓練の発表を全校生徒を集めて定例でおこなっている。
 言語を矯正することはなかなかできないもので、一語一語の形は似せることができても、ことばの本質ともいえる音韻・音節、いわゆる言語感覚を変容させることは至難なことであった。
 このとき少年や青年だった人たちの方言や発音は変わらなかったが、ことばに対しての関心は植えつけられたものらしく、聞きぐるしい雑言(ぞうごん)やことさらに荒々しいことばは控えめになったと伝えている。