祝福と笑顔につつまれた入学式の次の日、四月二日、一年生に好きな絵を描かせ、その余白に各自の名前を書いてもらった。日の丸の旗あり、赤いチューリップ、積木のような家、船、おかっぱの女の子、ウニのような太陽を二つかくもの、顔から手が出ているもの、一枚一枚楽しい絵ができあがっていく。その中で、周囲ばかり見まわしている子、教師の顔をみている子、画用紙をじっと見ているうちに、涙を一つ二つ落す子。「どうしたの」(こんなきき方が下の下だとわかったのは後のこと)何遍もきき返されて、一段と声高く「カゲネ」と泣きだす始末。
「クレヨンおれだ」「しょんべ・でて」言う前に泣いている子が二人、「かあさん・えね」「え(家)さ・え(行)ぐ」「くつ・ね(ない)」はてはランドセルに本が入らないと泣きだすもの、予期しない時に予期しない泣きが入る。とかく一年生は頼りなく、転びやすく、泣きやすい。(昭和三三年当時)
東京芸大坂本一郎氏の調査によれば、満六歳で五-六千語を使用しているのだそうだが、泣きの一手の何人かの一年生にとって、この泣きどころを上手に聞きとってもらうまでは、教師の言葉は耳に入らぬものらしい。
こうして出来上がった絵を見ていくうちに、名前の綴りの不審なものを何枚か発見した。「えのうい」と書いてあるのは井上(いのうえ)という子だろう。「ましを」は益夫(ますお)だった。「かじお」は一夫(かずお)。「まつこ」が町子(まちこ)。「みちお」は光男(みつお)。入学準備に、親も子も泣きの入った名前の練習だったろうが、手本の誤りの結果である。
早速リストを作り、家庭と連絡をとることにした。十日ほどで、五十六人の一年生は全員正しく自分の名前を書くことができた。
しかし、この「かなちがい」と総評されている問題は、学習の領域がひろがるごとに深刻さを加える。讀みの指導でも、話し学習でも、その中にどのような形でどの程度発音指導をとりいれていくかということで心労した。
子供達だけでなく、この村の生活語の中には「い・え・し・す・ち・つ」の音韻(音色)が見出されない。「い・え」「し・す」「ち・つ」「じ・ず」それぞれ五十音図字音以外のある一音ずつでまかなわれているのである。だから尾札部方言の中で育った子にとって、もし「かなちがい」をしないように表記するには、電信がな讀みに「からす」の「す」は「すずめのす」式に覚えるか、結んだ「す」と覚えていかなければならないという笑話にもなる。
国語の音韻(字音)が識別できるような注意力、聴取力を一年生のきき方学習の中に大きな位置をしめさせなければならなかった。
方言のもつ語彙・表現上の重要性以上に、五十音を正しく読み書きする基本的な力だけはどうしても身につけてもらわなくては、日々の学習がどうしても展開していかないようであった。
尾札部方言がもっている音色盲(音痴)をどのように共通語音に矯正していくか。昔からみれば、これで一段とよくなってきていることは確かだが。私たちが小学生の頃は、漢字の読みがなテストにかなちがいのしない男子は村長の息子とよその町から転校してきた子供だけだった。
私もどうかして先生や二人の子のようにきれいに本を読みたいものと思っても、口真似にもならなかったのを思い出す。女子の方は発音も男子よりずっとよかったときいている。
(『おさつべの教育』 昭和33年 「尾札部方言考」荒木恵吾)