源九郎義経が食事した器(お椀)が波にゆられて安浦の海辺に打ち寄せられたとも伝えられる。
アイヌは判官(ほうがん)義経公をオキクルミと同じ神として後世まで敬(うや)まい尊(たっ)とんでいたという。
『えぞのてぶり』
こゝにイタンギという磯(コタン)の名あり〔天註-イタンギは椀をいひ、シユマイタンキとは茶碗をいふとなん〕。そのいにしへ、源九郎義経の水むすび給ひし器の、浪のとりて、こゝに打よせてけるゆへを語れり。イタンギとは飯椀をいふなり。判官義経の公をアヰノども、ヲキクルミとて、いまの世までもいやしかしこみ尊めり。あるはいふ、夷(アヰノ)の、判官とて、おそれかしこみて神(カムヰ)といたゞきまつるは、小山悪四郎判官隆政と聞えたりし人、蝦夷の国の戦ひに鬼神のふるまひをなして、いさをしすくなからじ。小山統の家には巴の図(カタ)を付てければ、巴を蝦夷(アヰノ)ら判官(オキクロ)のみしるしとて、かれにもこれにも彫て、身のたからといふいはれしか/゛\〔天註―小山四郎判官隆政は下野大掾義政の子たり。小山の家なる自標は雙頭の巴形なり、さりければ蝦夷の国に巴をめで貴めり。是をなにくれの調度に刻て家の護りとす。蝦夷は巴をたふとむと、いやしくもおもひ、此島へ渡す具どもに何のわいためなう三頭の巴を標してわたせば、蝦夷人これを見て、をのがもてる具どもに三巴を彫てけることしかり〕。源九郎義経の、ゆめ此嶋へ渡給ひしよしのあらざめれど、義経の高き御名をかりにかゞやかして、蝦夷人らををびやかしたる、名もなき、ひたかぶとのものの、をこなるふるまひにてやあらんかし。おもふに小山判官と九郎判官と、蝦夷人が、うちまどへるにや。
『えぞのてぶり』