解説

今切変遷図  画像

 この今切変遷図は、細江神社神官の家に伝えられたものである。今切が、高潮や津波によって形成され、姿を変える様を描いた絵図である。貼付けられた紙片をめくってゆくと、時代を追って移り変わる姿を見る事ができる。左下に貼られた紙片には「永正7年午8月高浪二テ湖海一ツニナルトアリ遂二猪鼻駅日ヶ崎有し所流滅シテ今□大海トナル」と書かれ、自然の営みにより姿を変える今切と災害の関わりに対する深い関心が伺える。
 浜松市博物館所蔵、姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館に保管。
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     ⇒ふせんのめくり順について(図解)
 
 

古代、浜名橋が架けられる以前


今切変遷図8  画像

 [青枠内] では万葉集、高市連黒人の歌を引用し、角避比古ノ神(つのさくひこのかみ)が湖口の閉塞を守り賜う浜名川には橋を架けなかったが、貞観4年(862)に浜名橋を架けたと述べる。安礼崎(あれのさき)から西に流れる浜名川が浜名湖と遠州灘をつないでいる。
 

鎌倉時代、浜名橋があった頃


今切変遷図7  画像

 浜名川には浜名橋が架けられている。鎌倉時代の紀行文『東関紀行』 [青枠内] の著者は、仁治3年(1242)浜名橋を渡り舞沢の原の観音堂に参詣した。橋本駅には「ヨリトモゴテン」の名が見られる。建久元年(1190)の上洛の折と建久6年(1195)、頼朝は橋本駅に立ち寄ったという。
 

戦国時代、今切が出来た頃


今切変遷図6  画像

 浜名川の河口はふさがれ、今切ができた。今切の成立は明応7年あるいは8年、また永正7年とする説もあり、その成因は内山真龍の『遠江国風土記伝』でも考察されている。現在では、15世紀から16世紀にかけて度重なる地震、津波、高潮による浸食が今切を形成していったと考えられている。
 

慶長5年(1600)、関所が置かれた頃


今切変遷図5  画像

 慶長5年(1600)に置かれたという新居関所と、宿場や街道が整備された様が描かれている。このときの今切の渡海は27丁 [青枠内] と述べられている。
 

元禄14年(1701)、関所移設の後


今切変遷図4  画像

 元禄14年(1701)、高波により流された関所を藤十郎山の下に移し、渡海は1里 [青枠内] となった。
 

宝永4年(1707)、地震、津波の後


今切変遷図3  画像

 宝永4年(1707)10月4日の地震の津波で、三度関所が流された。旅行者は本坂通(姫街道)に集中し、浜松、舞坂、新居の宿場からは本坂通の通行禁止が求められたが、後の明和元年(1764)、本坂通は道中奉行管轄となる。絵図 には、西に移された関所とともに宿場や社寺も移転した様子が分かる。また舞坂の雁木(船着き場)が整備され、宿場の家並みが描かれている。舞坂への渡海は1里半となった。
 

年代等不詳


今切変遷図2  画像

 

年代等不詳


今切変遷図1  画像

 
(解説文は『浜松市博物館報』第26号(2014.3)収録の「浜名湖周辺の地震災害に関する絵図と古文書(増補改訂)」を引用。)
 
 

ふせんのめくり順について(図解)


今切変遷図めくり順