解題・説明
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江戸時代前期、正保(しょうほう)年間(1644~1648)に原本が作製された津軽領絵図の写しとみられる絵図である。この絵図は江戸幕府が実施した国絵図(くにえず)作成事業と密接な関連性がある。 近代に入り、西洋的な地図作製技術や製図法(ドローイング)が取り入れられ、また学校教育において概念として「地図」が導入される以前、日本においては、地図類や建築の見取図に対する呼称として「絵図」という語が用いられた。その特徴として具象的な表現、例えば、地図類の場合であれば、山、川、湖、海、道路などに絵画風の表現が加えられていることが指摘できる 中央政府が国土の地図と土地台帳を完備することは、東洋における政治の伝統であった。我が国においては、古代律令国家(りつりょうこっか)が国郡図を徴収した例を『日本書紀』などの史料に見ることができるが、9世紀以降近世に入るまでの間、その伝統は長らく中絶していた。 近世に入って、豊臣政権、および江戸幕府が、配下の大名に命じて作製させた、国を単位とする絵図のことを「国絵図(くにえず)」という。この場合の「国」とは、大名の領国単位ではなく、国郡制という古代にさかのぼる地方行政区画としての国のことである。国絵図とともに土地台帳も作成され、併せて提出された。 「多聞院日記略(たもんいんにっきりゃく)」(東京大学史料編纂所蔵)天正19年(1591)7月29日条に、「日本国ノ郡里指図絵ニ書キ、海・山・カハ・里・寺社・田数以下悉注上ヘキ儀御下知云々、禁中ニ可被罷置之用云々、異ナル事也」とある。すなわち、豊臣政権が、朝廷に献納するという名目で、郡や里(村)を絵に描き、さらには海・山・川・里・寺社・田数以下をことごとく書き記して提出するよう命じたというのである。この国絵図と御前帳(ごぜんちょう)(検地帳)の作成・徴収は、太閤検地(たいこうけんち)の成果を集大成したものであると位置づけられており、また、日本全土を律令国家(りつりょうこっか)が定めた支配の単位である国・郡の枠組み(国郡制(こくぐんせい))により掌握しようとする手段として、さらに、秀吉が推進しようとした「唐入(からい)り」(朝鮮出兵)に向けての国内総動員体制の一環として機能したものと考えられている。江戸幕府の国絵図作成事業の先駆として注目されるが、「視聴草(みききぐさ)」(国立公文書館蔵)第57冊所収の「諸国御前帳駒井被請取候覚」、の存在から、記録上はその存在や提出が確認しうるものの現在までこの天正の国絵図は発見されていない。 この秀吉の例に倣い、慶長9年(1604)には徳川家康が国絵図〈慶長国絵図〉・御前帳(検地帳)の作成・提出を命じている。これを含めて、江戸幕府は作成開始時期の順に、17世紀初期の慶長年間、17世紀前半の正保年間、17世紀末から18世紀初頭の元禄年間、19世紀前半の天保年間の4度にわたって国絵図作成・徴収を命じた。 国絵図は原則として国ごとに1枚の絵図が作られた。江戸時代には1つの国の中に複数の大名が存在することもあり、陸奥・出羽・越後など範囲が広い国では、複数に分割して作らせている。特に津軽領が存在する陸奥国は、現在の青森・岩手・宮城・福島各県と秋田県の鹿角地域を含む広大な範囲に及ぶため、確認できる正保国絵図以降、国絵図は分割して作成された。国絵図・郷帳の作成にあたる大名を「絵図元(えずもと)」と呼ぶが、津軽領については正保以降、津軽家が絵図元となっている。 国絵図のうち、正保元年(1644)に作成が命じられた正保国絵図は、幕府が初めて作成基準を示し、規格の統一を図った国絵図で、この後作成された元禄・天保の国絵図作成事業においても規格が踏襲された。縮尺は6寸で1里(21600分の1)と定められ、山川湖沼・名所旧跡・城郭港湾・陸海路を詳細に描き込むよう指示がなされている。狩野派の御用絵師によって極彩色で細密に描かれた。村名や石高が明示されており、それらは、同時に作製・徴収された国ごとの「郷帳」と内容が一致する。この後徴収された元禄国絵図を「新国絵図」と称するのに対して、正保国絵図は「古国絵図」と呼ばれた。 弘前藩が作成、提出した正保国絵図については、青森県立郷土館に所蔵されている「陸奥国津軽郡之絵図」(以下、郷土館本)が従来から正保国絵図の忠実な写しとして広く知られている。この絵図は、「正保二年乙酉年十二月廿八日差上御公儀候控写也、貞享二乙丑年三月廿六日」という裏書から、幕府に提出した正本の控図が残されていたのを、貞享2年(1685)に写し取って作成したことがわかる。一方、「慶安の御郡中絵図」と通称される本図は、寸法は若干異なるが、内容や描法が郷土館本とよく似ており、弘前藩が元禄16年(1703)より以前から、郷土館本と本図を同じところで管理していたことが、本田伸氏の研究によって明らかにされている。これらの絵図に共通する特徴としては、正保国絵図では、通常、黒い太枠の四角形で城下町の所在が表現されるべきところ、黄色い下地を黒い太丸で囲み、「弘前」とだけ書きこんであること、また、特徴的な記載内容として、津軽半島と夏泊半島の計5か所にアイヌ集落を意味する「狄村」「犾村」がみえることが挙げられる。 なお、正保の国絵図作成事業の特徴として、添献上物として、郷帳のほかに、道帳(みちのちょう)と城絵図の提出が求められたことが挙げられる。道帳は慶安2年(1649)2月に津軽領内において作成され、江戸に送られた「道帳」の控えとみられる「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」が市立弘前図書館に残されている(同史料解題を参照のこと)。国絵図に記載された当時の津軽領内の道路・海路を網羅している。領内の道路は、秋田領境から深浦(ふかうら)・鰺ヶ沢(あじがさわ)・弘前・藤崎(ふじさき)・浪岡(なみおか)・油川(あぶらかわ)・青森(あおもり)・浅虫(あさむし)・小湊(こみなと)・狩場沢(かりばさわ)を経て南部領境に至る道と、弘前から大鰐(おおわに)・碇ヶ関(いかりがせき)を通り秋田領境に至る道、このいわば幹線道路にあたる2本の大道筋と、そこから分岐する主要道である小道・脇道・磯辺路に分けられ、各道の道筋・里数、川・坂、さらに軍事的な拠点にもなり得る古城の有無やその規模などを記載している。また沿岸の湊、海路の里程、湊や航路の風の具合などが記載されている。 城絵図は単なる城郭の縄張図ではなく、その周囲に広がる町割りや台地・土手・川・濠などを詳細に描くことが幕府から求められた。弘前藩が慶安元年(1643)に提出した城絵図の正本である「津軽弘前城之絵図」が国立公文書館に所蔵されており(以下、公文書館本と略記)、国の重要文化財に指定されている。これと類似した寛永年間(1624~1643)の末ごろの作とされる「津軽弘前城之絵図」が弘前市立博物館に所蔵されており(以下、市博本と略記)、こちらは弘前市の指定文化財となっている。市博本は現在までのところ、弘前城下を描いた最古の絵図として知られている。 この2枚の絵図は、細部の注記などに微妙な差異があるが、公文書館本は、下書きである市博本を清書したものと考えられる。本田伸氏は、弘前藩による元禄16年(1703)・宝永7年(1710)の2度にわたる所蔵絵図確認作業の成果をまとめた「御絵図目録」(弘前市立博物館蔵)にみえる「津軽郡弘前城之図」という絵図の記載に、「御公儀へ上ル控」という注記があることから、これを市博本に比定する見解を示している。すなわち、下書きとして作成された市博本が、のちに公文書館本の控図として保存された可能性がある。市博本を公文書館本の下書きとみなすと、恐らくは、市博本の作成時期も、正保国絵図の作成時期から考えて、これまで言われてきた寛永末年よりも少し下る時期のものとみなしてよいものと考えられる。 なお、津軽領の国絵図については、本田伸氏・尾崎久美子氏による優れた論稿に詳しいので、参照されたい。(千葉一大) 【参考文献】 福井保「内閣文庫所蔵の国絵図について」(『内閣文庫書誌の研究』青裳堂書店、1980年) 福井敏隆「<史料紹介>慶安二年二月成立の「津軽領分大道小道磯辺路幷船路之帳」(弘前市八木橋文庫蔵)」(『弘前大学國史研究』75、1983年) 川村博忠『江戸幕府撰国絵図の研究』(古今書院、1984年) 川村博忠『国絵図』(吉川弘文館、1990年) 本田伸「弘前藩「御絵図目録」の発見とその意義」(『弘前大学國史研究』110、2001年) 尾崎久美子「陸奥国 弘前藩 アイヌ集落が描かれた図」(国絵図研究会編『国絵図の世界』柏書房、2005年) 福井敏隆「<史料紹介>慶安元年(一六四八)十一月成立の「津軽領分大道小道磯辺路幷船路之帳」(函館市中央図書館蔵)」(『弘前大学國史研究』 121、2006年) 本田伸「消えた松前─未発見の津軽領元禄国絵図に関する小考─」(長谷川成一監修、浪川健治・佐々木馨編『北方社会史の視座 歴史・文化・生活』第2巻、清文堂出版、2008年) 川村博忠『江戸幕府の日本地図 国絵図・城絵図・日本図』(吉川弘文館、2010年)
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