解題・説明
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弘前城から家中屋敷の本格的な郭外への移転は、元禄8年(1695)1月を手始めに、翌9年から12年にかけて行なわれる。この移転の結果は、元禄11年(1698)改訂の「弘前惣御絵図」に示される。二の郭には家臣の居住は記されず、空き屋敷1軒のほか、御用地の付箋のある屋敷地が1つ、そして蔵屋敷・馬屋・馬場が設けられるのみである。三の郭は屋敷割が16区画のみとなり、そのうち空き屋敷は6軒を数え、家中屋敷は大手門近辺と車門北側に六軒が残るのみで、四の郭の家中屋敷はこの時点までにすべて姿を消している。この時点で城内に残った屋敷も、宝永2年(1705)3月から大手門外と外東門外に移転され、これをもって家中屋敷の郭外移転が完了し、弘前城は城主の居館や藩政執行のための施設となり、職務遂行の場としての役所と家中の居住する私宅とが空間的に分離することになった。弘前城はこのことによって権力と権威の中枢としての存在となり、またその象徴として意識化されるようなる。この弘前御城之図には建物群は記載されていないが、機密であり描かれることのない城中枢以外がすでに存在しなくなっていることを示すものである。(浪川健治)
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