解題・説明
|
縁起(えんぎ)とは、寺社や仏像・宝物の由来や、霊験(れいげん)・利益・功徳(くどく)などの伝説、さらにはそれらを書き記した文書の類のことである。日本における現存最古の縁起は天平(てんぴょう)14年(747)2月11日付の「元興寺(がんごうじ)伽藍縁起并流記資材帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)」「法隆寺(ほうりゅうじ)伽藍縁起并流記資材帳」「大安寺(だいあんじ)伽藍縁起并流記資材帳」で、縁起の他、「流記資材帳」と呼ばれる寺領・経典・仏像、その他宝物・奴婢といった資産目録が付されている(「流記」とは後代にまで伝えられる資材帳のことをいう)。 曹洞宗(そうとうしゅう)長雲山(ちょううんざん)藤先寺(とうせんじ)は、市内西茂森(にししげもり)1丁目に所在し、同地にある禅林街(ぜんりんがい)三十三か寺の1つである。禅林街は、弘前城の西南長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)(禅寺構(ぜんでらがまえ)とも)に所在する。構(かまえ)とは、構造物やそれを囲む区画のことをいう(『日本国語大辞典』第2版)。本史料は、藤先寺の由来について記載したものである。 以下、縁起によって当寺の由緒を叙述する。藤先寺は耕春院(こうしゅんいん)の末寺とある。長福山(ちょうふくざん)耕春院は、長勝寺構のうち下寺(したでら)と呼ばれる寺院の中心的地位にあり、明治5年(1872)、火事に遭い伽藍を焼失、以後廃寺同様になっていたが、大正元年(1912)、石川県金沢市にあった本寺の宗徳寺(そうとくじ)を合併し、耕春山(こうしゅんざん)宗徳寺(そうとくじ)と改称している。 藤先寺は天正元年(1573)、中岳善哲が藤崎村(現南津軽郡藤崎町)に創建した庵をもとにしている。中岳は津軽の生まれで、大浦(おおうら)(津軽)為信(ためのぶ)の使者として出羽大山城に赴いたところ、帰路秋田の盲ヶ鼻という所の関所で怪しまれて捕えられたが、口が堅く実を語らなかったため、鼻削ぎの刑を受け、辛うじて帰国したという。縁起に注されている内容が正しければ、大山城は庄内の尾浦城(おうらじょう)(現山形県鶴岡市大山3丁目)で、その城主武藤(むとう)(大宝寺(だいほうじ))義氏(よしうじ)のもとに赴いたものとみられる。復命を受けた為信は恩賞として寺領30石と小作百姓2軒を与えたという。 その後、為信の義弟(大浦為則(おおうらためのり)の娘である為信正室仙桃院(せんとういん)の弟)五郎(法名達叟先公大禅定門)・六郎(法名空春藤公大禅定門)兄弟が慶長2年(1597)3月に死去すると、仙桃院が庵を寺に改め、両人の法名から「藤」と「先」の1字を採って寺号としたとされる。のち、明確な時期は記されていないが、寺は大光寺村(だいこうじむら)(現平川市大光寺)に移り、慶長8年(1603)4月21日に為信の娘で大光寺城主津軽建広(つがるたてひろ)に嫁いだ富姫(とみひめ)が没するとこの寺に葬られ、追善として寺領7石が更に寄進された。また前関白近衛前久(このえさきひさ)(龍山(りゅうざん))が富姫の死を悼んで「なむあみたふ(南無阿弥陀仏)」の六字名号を頭に置いた和歌を詠んだといい、その真筆が寺宝として所蔵されている。藤先寺が大光寺村から弘前城下に移ったのは元和年間(1615~1624)のことであるという。 藤先寺の弘前移転は、弘前藩が、弘前城下の形成にあたって、それまでの城下であった堀越(ほりこし)(現市内大字堀越)や領内各所からの寺社移転を推進したことが背景にある。現在の平川市や旧南津軽郡(みなみつがるぐん)域に所在していた寺院をその例として挙げれば、大光寺から藤先寺と貞昌寺(ていしょうじ)(浄土宗)・本行寺(ほんぎょうじ)(日蓮宗)、浪岡(なみおか)(現青森市大字浪岡)から京徳寺(きょうとくじ)と西光寺(さいこうじ)(浄土宗)、乳井(にゅうい)(現弘前市大字乳井)から盛雲院(せいうんいん)、森山(もりやま)(現南津軽郡大鰐町森山)より松伝寺(しょうでんじ)(現正伝寺)、新屋(あらや)(現平川市新屋・新屋町)から永泉寺(ようせんじ(えいせんじ))が弘前城下に移転している。 この大規模な移転策によって、元和(げんな)年間(1615~1624)までに、領内各地から弘前に移転した寺院は、曹洞宗(そうとうしゅう)34、浄土宗(じょうどしゅう)4、浄土真宗(じょうどしんしゅう)4、日蓮宗(にちれんしゅう)2、真言宗(しんごんしゅう)4、天台宗(てんだいしゅう)2の計50か寺にのぼる。この寺社移転は、城下鎮護という宗教的意味合いもさることながら、藩の宗教政策の一環として、寺社がそれまで所在していた在地に信仰を通じて持っていた影響力を削いで、藩権力の下に置き、寺社統制(じしゃとうせい)を確立するという側面もあった。 慶長(けいちょう)15年(1610)、城南の台地と茂森町(しげもりまち)との間に、津軽家の重臣乳井大隅守(にゅういおおすみのかみ)によって、高さ2間、長さ320間の土塁(どるい)、幅13間、深さ3間半の空堀(からぼり)の普請が行われた。入り口に枡形(ますがた)も設けられ、城南の防衛拠点ともなりうる一種の郭(くるわ)が形成された。ここには津軽家の菩提寺である長勝寺をはじめとする曹洞宗の寺院が配置された。正保絵図(しょうほうしろえず)「津軽弘前城之絵図(つがるひろさきじょうのえず)」(国立公文書館蔵)の下書きとして描かれ、そののち控図として弘前に保存されたと考えられている「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)は、もっともはやい時期の城下絵図と考えられているが、同図の長勝寺構を見ると、長勝寺をはじめ34の寺院割がなされており、この時期には在方から構内への寺院移転が完了していたものと考えられる。さらに延宝(えんぽう)5年(1677)の「弘前惣御絵図(ひろさきそうおんえず)」(弘前市立弘前図書館蔵、別項参照のこと)では、現在この地にみられる寺名がほぼ確認できる。大凡この時期頃から、この地については「長勝寺構」と呼ばれるようになった(延宝8年3月調「長勝寺並寺院開山世代調(ちょうしょうじならびにじいんかいざんせだいしらべ)」長勝寺蔵、『新編弘前市史』資料編3近世2・405号史料)。(千葉一大) 【参考文献】 『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年) 角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 2 青森県』(角川書店、1985年) 千葉一大「弘前城下の寺院街─長勝寺構と新寺町─」(長谷川成一監修『図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史』郷土出版社、2006年)
|