解題・説明
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この『論語(ろんご)』は、弘前藩の藩校「稽古館(けいこかん)」が出版したものである。江戸時代の諸藩は、藩政を担う人材の育成、藩士・領民の教化を目的に藩校を設置した。藩校には編輯・出版の機関が置かれることも多く、書物編纂・刊行も藩校の大きな役割のひとつであった。藩・大名の援助により出版した書物を「藩版(はんぱん)」といい、特に藩校名義で開版されたものを「藩校版(はんこうばん)」と称することがある。稽古館で刊行された書籍は、まさに「藩版」「藩校版」にあたり、特に稽古館本(けいこかんぼん)とか稽古館版(けいこかんばん)という。 書物を藩校が出版する趣旨として挙げられるのは、①教科書を出版し廉価で販売することにより、学問教育を普及させ思想統一を図る、②藩主の好学・学芸奨励の姿勢にもとづいて、古書や学者の著作、自撰の書物を刊行する、③儒者や医者など藩の学識者の著作を刊行して教学や民生に生かす、④幕府の奨励といった各点による。『論語』を稽古館が出版したのは、①の学生が用いる教科書の自給自足を目的としたものだった。 『論語』は、儒教の最も基礎的な書物とされる四書(ししょ)、すなわち、『大学(だいがく)』『論語(ろんご)』『孟子(もうし)』『中庸(ちゅうよう)』のひとつである。十巻、二十篇からなる。孔子の言葉、行い、門人たちとの対話、門人の言葉などの記録が伝えられて、のちに編集された言行録である。 『論語』編纂の事情ははっきりしない。後漢(ごかん)の班固(はんこ)(32~92)は、その『漢書(かんじょ)』芸文志(げいぶんし)の中で、孔子(こうし)(B.C.551~B.C.479)の死後、その弟子たちが論述編集したものであるから「論語」というと由来を述べているが、中国古典文学者の吉田賢抗(よしだけんこう)(1900~1995)は、互いに論議し吟味した問答語という意味で、後世の語録というのがこれに近いだろうと述べている。 内容は、孔子の思想と人格を伝えることに主眼があって、そこで語られる思想の主題は、人間としての道徳的な正しい生き方とはなにかということにある。すなわち、真心(忠(ちゅう))と思いやり(如(じょ))を基本として、人間愛(仁(じん))の徳を立てること、さらに親への孝行(孝(こう))、年長者への崇敬(悌(てい))を弁えた、人格者(君子(くんし))としての在り方を模索し、さらに人間関係を保つための作法・制度を整備することが、ひいては国家の社会秩序を保つという理想(礼)を追求しているものである。 『論語』の伝本は当初、斉(せい)(現在の中国山東省(さんとうしょう)に存在した国)に伝わった斉論(せいろん)、魯(ろ)(現在の山東省南部に存在した国)に伝わった魯論(ろろん)、孔子の旧宅の壁中から出た古論(ころん)があった。これらは前漢(ぜんかん)の末に原型を失って現在見る形にまとまった。 漢代に儒教が国教となると、『論語』は『孝経(こうきょう)』とともに五経(ごきょう)に準じて尊重された。宋代に入ると、儒家の経典に哲学的解釈を加える宋学が盛んになり、中でも朱子学(しゅしがく)を開いた朱熹(しゅき)(1130~1200)は、『論語』を筆頭として、それに『大学』『孟子』『中庸』を加えて四書とし、従来重んじられてきた五経よりも重視した。さらに自らそれらに注釈を付してこれを『四書集注(ししょしっちゅう)』とした。 『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇(おうじんてんのう)16年に百済(くだら)の博士王仁(わに)(和邇吉師(わにきし))によって、『論語』が日本に伝来したという。早くは厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子(しょうとくたいし)、574~622)の編んだ「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」や奈良時代の官撰史書『日本書紀』にもその影響がみられるが、しばらくは朝廷・貴族・僧侶などの間で読まれ、一般には広まらなかった。鎌倉時代の正安元年(1299)、元から来朝した僧侶一山一寧(いっさんいちねい)(1247~1317)が朱熹の『論語集注(ろんごしっちゅう)』をもたらして以降、宋学の説が広まり、江戸時代に入ると朱子学が幕府の保護を受けたことから、藩校から市井の寺子屋までの教育に『論語』は広く用いられるようになり、朱熹による注が一般庶民の間にも広がることになった。 なお、江戸時代には、『論語』を「りんぎょ」、「ろんぎょ」と呼び習わすことが多かった(『日本国語大辞典』)。(千葉一大) 【参考文献】 吉田賢抗『新釈漢文大系 第1巻 論語』(明治書院、初版1960年、改訂45版2006年) 笠井助治『近世藩校における出版書の研究』(吉川弘文館、1962年) 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年) 内山知也『新釈漢文大系 別巻 漢籍解題事典』(明治書院、2013年)
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