解題・説明
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江戸時代の諸藩においては、藩政を担う人材の育成や藩士・領民の教化を目的として藩校を設置した。藩校には編輯・出版の機関が置かれることも多く、書物編纂・刊行も藩校の大きな役割のひとつとなった。藩・大名の援助により出版した書物を「藩版(はんぱん)」といい、特に藩校名義で開版されたものを「藩校版(はんこうばん)」と称することがある。 書物を藩校が出版する趣旨として挙げられるのは、①教科書を出版し廉価で販売することにより学問教育を普及させ思想統一を図る、②藩主の好学・学芸奨励の姿勢にもとづいて、古書や学者の著作、自撰の書物を刊行する、③儒者や医者など藩の学識者の著作を刊行して教学や民生に生かす、④幕府の奨励といった各点だが、弘前藩の場合、4代藩主津軽信政が師事した山鹿素行の『聖教要録(せいきょうようろく)』『武教要録(ぶきょうようろく)』『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』を刊行したのは②にあたるだろうし、ここで触れる藩校における出版の多くは①によるものであろう。 弘前藩の寛政改革(かんせいかいかく)において設立された藩校「稽古館(けいこかん)」でも、藩政を担うべき家中子弟を対象とする人材育成のほかにも多彩な活動が展開されたが、なかでも学生が用いる教科書の自給自足を目的として和漢籍の出版を行っていた。印刷は一枚の板に版面を彫刻する木版(整版)と、木活字使用による活字組版の二種があり、版木を作成する彫刻方という専門の部署も存在していた。刊行された書籍を特に稽古館本とか稽古館版という。 最も早く刊行されたのは寛政7年(1795)の『孝経(こうきょう)(古文孝経(こぶんこうきょう))』で、以下、『尚書(しょうしょ)』二巻(寛政9年)、『毛詩(もうし)(詩経(しきょう))』二巻(文化6年、1809)、『礼記(らいき)』」(文化8年)、『帝範(ていはん)』二巻・『臣軌(しんき)』二巻(文化9年)、『和漢年代歌(わかんねんだいか)』一巻・『易経(えききょう)』(文化10年)、『中庸(ちゅうよう)』一巻(文化11年)、四書白文(『大学(だいがく)』一巻・『中庸(ちゅうよう)』一巻・『論語(ろんご)』二巻・『孟子(もうし)』二巻)(文政2年、1819)、五経白文(『易経(えききょう)』二巻・『詩経(しきょう)』二巻・『礼記(らいき)』三巻)、『三字経(さんじきょう)』一巻(文政5年)、『唐詩選(とうしせん)』七巻(2冊)、『皇朝史略(こうちょうしりゃく)』十二巻・続五巻(8冊)(慶応元年、1865)と続く。 また、藩の儒者山崎蘭洲(やまざきらんしゅう)の著作を門人が編集した『蘭洲先生遺稿(らんしゅうせんせいいこう)』五巻(文化2年、1805)や、山鹿素行の著作『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』『聖教要録(せいきょうようろく)』(文政元年)など、弘前藩ゆかりの人物の書籍も稽古館から版行されている。現在伝わっている稽古館本には稽古館蔵版(けいこかんぞうはん)と刻してあるものの無刊年のものもあり、これは必要な都度同じ版木・活字で幾度も年を重ねて印刷されたためと考えられている。 稽古館版の書籍は「学官及び生徒に頒与するも売却営利せしに非るなり」(『日本教育史資料』)とあるように、教官・学生の購入の便を図るため、廉価で販売された。万延元年(1860)の価格は『大学』1匁5分、『中庸』1匁、『孟子』6匁3分、『論語』3匁、『書経(尚書)』5匁7分5厘、『孝経』1匁5分、『詩経』7匁3分5厘、『三字経』1匁4分、『易経』3匁8分、『唐詩選』7匁、『礼記』13匁6分5厘、『蘭洲先生遺稿』3匁となっている、ちなみに、当時の弘前の物価を示すと、米1俵は55匁余、大豆1俵は35匁余、酒1升は2匁6分余、白米1升が1匁4分余であった。 なお、厳密には稽古館本とはいえないが、稽古館の出版活動の一環として『稽古館暦(けいこかんごよみ)』が版行されている。暦の発行は藩校の天文学・数学の教官が担当し、幕府天文方の検閲を受けて、明治3年(1870)まで教官・生徒向けに刊行・頒布された。(千葉一大) 【参考文献】 『日本教育史資料』壱(文部省総務局、1890年) 羽賀与七郎「稽古館成立に関する一考察」(『弘前大学國史研究』18、1959年) 笠井助治『近世藩校における出版書の研究』(吉川弘文館、1962年) 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年) 羽賀与七郎「弘前藩の学風」(『弘前大学國史研究』31、1962年) 瀧本壽史「弘前藩藩校の学官について」(『北奥文化』12、1991年)
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