解題・説明
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市立弘前図書館に所蔵されている、弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記(ひろさきはんちょうにっき)」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記(おくににっき)」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政(のぶまさ)の初入部(はつにゅうぶ)の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。後者は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。記載期間は寛文8年(1668)5月11日の信政江戸到着に始まり、慶応4年(1868)2月晦日(30日)まで約1200冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」の冊数は、写しや破本をどのように数えるかで文献によって差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。なお、江戸日記は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政期には藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「御国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたものであり(「御国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料としては二次史料として位置づけられる。 「御国日記」の記載内容は、月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行・物頭・青森在番の人名が列記される。日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の人名が列記され、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録することが定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233~235頁の記述をもとにしている)。 本史料では、5月8日・同29日条において、現在弘前公園の工業高校口として知られる西の郭南の埋門(うずみもん)に架かる橋の門側の土留を石積に変更することを江戸幕府に申請した際の手続きが詳細に記されている。 大名が城郭を修理するためには、幕府に申請し許可を受けることが必要であった。元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓(やぐら)・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられていたのである。諸大名が城郭の修復普請を行う場合、手続きとして、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。 弘前藩では藩主津軽信寿(のぶひさ)の発意で、当時「御花畑」とも呼ばれていた西の郭の埋門の土留がそれまで板だったものを石垣積みとすることにした。そこで、幕府にうかがい出る内容を絵図(下絵図)に描き、5月1日にまず老中久世重之(くぜしげゆき)の用人にそれを持参し相談したところ、彼らは一覧して、主君に披露するにも及ばず、早々に提出するようにと促した。このため月番老中井上正岑(いのうえまさみね)の屋敷に留守居役(るすいやく)(御聞役(おききやく))落合大右衛門が絵図・伺書をもって赴き、内意を尋ねたところ、提出する書付の内容が整わない場合には許可が下りないことがあり、絵図を修正する大名もあるため、まず幕府右筆(ゆうひつ)の意見を聞くようにという示唆を井上家の用人からうけたという。 幕府の右筆には、奥右筆(ゆうひつ)と表右筆(おもてゆうひつ)がある。この当時、奥右筆は幕政の内々の事項、文書作成を扱う立場から、享保の改革開始以降業務内容が拡充しつつあり、一方表右筆は、様々な調べ物、将軍の御内書(ごないしょ)や領知宛行状(りょうちあてがいじょう)、老中奉書(ろうじゅうほうしょ)などの幕府の公用文書作成、政事向、役人の異動などに関する幕政情報を集積して幕府の日記(「江戸幕府日記」)を記し、大名・旗本の名簿(分限帳(ぶげんちょう))といった文書管理などを任としていた。弘前藩は幕府表右筆の大橋藤蔵を頼ることにし、その許を落合が訪ね相談した結果、大橋から上役である表右筆組頭小池与右衛門へ絵図を内見させて、絵図に書き付ける内容についての示唆を得ることができた。幕府に提出する書類であるために、幕府に提出される様々な文書・記録を調べる立場にあり、書式文面に通じた奥右筆からのアドヴァイスを必要としたと考えられる。 この示唆を受けて弘前藩では再度伺絵図を作成し、5月6日に再度井上の許に伺絵図と口上書を持参して内見をうけ、伺い通りの内容で提出するように指示を受けた。それをうけて5月9日に清書した絵図と願書を提出することになった。正式な提出については、豊前(ぶぜん)小倉(こくら)(現福岡県北九州市小倉区)藩や出羽庄内(しょうない)藩の留守居役にも問い合わせ、他大名家の通例に倣って、藩主の自らが老中の許に赴いて提出する形をとらず、留守居役が月番老中の許へ持参することとし、藩主は、老中の屋敷に廻勤(かいきん)(大名が定期的に幕府高官の屋敷を訪ね、挨拶や用談を行うこと)する際に、月番老中または老中の用人に対して、願意についてさらに陳情する形をとることになった。 このように幕府に城郭修補を願い出る際には、提出書類を巡って、老中の内見、幕府の右筆との折衝、他藩の留守居役への先例問い合わせ等がなされ、綿密なすりあわせの後に、正式な願書・絵図の提出に至っていることがわかる。 5月9日、落合大右衛門が使者として井上正岑の屋敷に赴き、願書と外袋に入れた絵図を1枚提出した。願書は紙を横半分に切った切紙(きりがみ)を用い、文面は絵図奥書の文面と同じもので、上包をした。また絵図は間似合紙(まにあいがみ)に記され、その外袋は程村紙(ほどむらがみ)で調製し、「陸奥国津軽郡弘前城之図 津軽土佐守」と記した。そして5月29日、願意の通り修復を許可する旨の老中奉書が津軽家に渡されている。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年) 松平(上野)秀治「記録」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 羽賀与七郎「弘前藩庁日記」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 神宮司庁蔵版『古事類苑』官位部3(吉川弘文館、1996年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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