解題・説明
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弘前城の西側を流れる岩木川はかつて、南西部で駒越川(本流)と樋ノ口川の二筋に分かれ、北西部で再合流していた。この樋ノ口川を留め切って引き込んだのが西濠だが、年月と共に土砂が堆積し埋まってしまうという問題が生じた。その上、明和3年(1766)の岩木川大洪水で土砂が大量に流入したため、堀浚いが必要となった。本絵図は、享和4年(文化元/1804)2月に作成された城郭修補絵図の控図だが、実際には堀の浚渫を願い出たのである。絵図の注記に「陸奥国弘前城堀埋候所々」とあり、9か所に渡ってその位置と間数が列記されている。朱線はこの注記の図示である。その後、西濠は湿地帯化し、藪が繁茂して自由に往来できる状況となったため、弘前藩は元治元年(1864)にも堀浚いを行った。この時は、社会状況の緊迫化で城の機能回復を急ぐ必要があり、「水田用水の工事だ」と名目を立て、無許可で工事を行っている(弘前藩庁日記「御国日記」同年9月9日条)。(本田伸) 【参考文献】 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年) 小石川透「修復など幕府へ申請」(陸奥新報『北方史の中の津軽』54、2010年)
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