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目録ID mp000233-200010
文書名 弘前藩庁日記(国日記)
文書名(カナ) ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
文書名(ローマ字) Hirosaki hancho nikki kuni nikki
別名 天保2年3月20日
別名(カナ) テンポウ ニネン サンガツ ハツカ
別名(ローマ字) Tenpo ninen sangatsu hatsuka
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者 御日記方編
差出・作成者(カナ) オニッキ カタ
差出・作成者(ローマ字) Onikki kata
宛所
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年 天保2年(1831)3月20日
作成年終
数量 136丁
形状
寸法
寸法(縦) 30cm
寸法(横) 22.5cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年 天保2年3月3日許可
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 天保2年(1831)、弘前藩では前年8月の水害で被災した弘前城の修復を江戸幕府に申請し、許可された。本史料は天保2年3月分の「弘前藩庁日記(国日記)」であるが、その3月20日条では、この修復許可されるに至る幕府への申請経緯が詳述されている。
 市立弘前図書館に所蔵されている、弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。後者は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。記載期間は寛文8年(1668)5月11日の信政江戸到着に始まり、慶応4年(1868)2月晦日(30日)まで約1200冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。なお、江戸日記は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。
 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政期には藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「御国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたもので(「御国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料として「弘前藩庁日記」は二次史料として位置づけられる。
 「御国日記」の記載内容は、まずその月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行・物頭・青森在番の人名が列記され、日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の名、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事について記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。
 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録していかなければいけないと定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233~235頁の記述をもとにした)。
 文政13年(天保元年、1830)8月、津軽では断続的に雨が降り、河川の水位は高くなっていた。16日暁前より大雨となり、岩木川は未曾有の大出水といわれる事態となった。やがて、二階堰の水門と土手が20間ほど破れ、旧樋ノ口川の流路に沿って城下の下町と呼ばれる地区に濁流が押し寄せ、広範囲に浸水した。被害は弘前城内にも及び、西堀から水が溢れて西の郭に達し、土塁(土居(どい))、塀、柵などが崩れ、堀にも土砂が流入し、また鷹部屋が浸水、作事方の資材が流出するなどの被害が発生した。別名「下町流れ」と呼ばれるこの洪水は、翌日夜五つ時以降落水し、その日のうちに完全に水が引いたという。下町の被害は流失20戸、半壊21戸、溺死39人を数え、城下の下町と中町をあわせた浸水家屋は家中・扶持人あわせて800戸に及んだという。
 幕府からの修復許可に至るまでの経緯を記した本史料の天保2年3月20日条によれば、問い合わせを踏まえて、2月2日に月番老中水野忠成に修補箇所などを記載した伺書と下絵図を提出して、この内容で修補願書・絵図を提出して良いか伺い出ている。これに対して、同月10日に水野の側から弘前藩留守居役の呼び出しがあり、それに応じて留守居役(御聞役)比良野文蔵が出頭したところ、下絵図にこの通りに調えるようにという内容の附札を付す形で、伺書・下絵図と同内容の書面提出についての了解が得られた。弘前藩では同月16日正式な修補絵図と控絵図、正式な修補願書と願書の控を月番老中の許に提出したところ、3月3日に水野から留守居役への呼び出しがあり、留守居役の助役徳永可助が赴いたところ、伺書の写が返却され、さらに申請内容を許可する老中連署奉書が下付された。弘前へは伺書の写、奉書にて願い済みの儀についての別紙1通、水野の附札が付された下絵図1枚、さらに弘前で作成され送られた下絵図1枚がまとめて送られた旨が記されている。(千葉一大)
【参考文献】
弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年)
山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』下巻之壱(陸奥新報社、1973年)
松平(上野)秀治「記録」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年)
羽賀与七郎「弘前藩庁日記」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年)
藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年)
白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年)
三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年)
小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 津軽家-32
管理記号 TK215-1-2834
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 城郭補修資料
資料分類(大分類) 津軽家文書
資料分類(中分類) 弘前藩庁日記
資料分類(小分類)
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自治体史掲載
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