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目録ID mp000236-200010
文書名 弘前藩庁日記(国日記)
文書名(カナ) ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
文書名(ローマ字) Hirosaki hancho nikki kuni nikki
別名 嘉永3年9月2日
別名(カナ) カエイ サンネン クガツ フツカ
別名(ローマ字) Kaei sannen kugatsu hutsuka
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者 御日記方編
差出・作成者(カナ) オニッキ カタ
差出・作成者(ローマ字) Onikki kata
宛所
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年 嘉永3年(1850)9月
作成年終
数量 117丁
形状
寸法
寸法(縦) 30cm
寸法(横) 22.5cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年 嘉永3年7月25日許可
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 市立弘前図書館に所蔵されている、弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。後者は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。記載期間は寛文8年(1668)5月11日の信政江戸到着に始まり、慶応4年(1868)2月晦日(30日)まで約1200冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。なお、江戸日記は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。
 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政期には藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「御国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録が集大成されたもので(「御国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料としては二次史料として位置づけられる。
 「御国日記」の記載内容は、まずその月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行・物頭・青森在番の人名を列記する。日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の人名が列記され、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。
 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録することが定められていたが、時代が下がり、藩政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も取り扱う状況になると、日々差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史』通史編2近世1、233~235頁の記述もとにしている)。
 本史料は、嘉永3年(1850)9月の「御国日記」であるが、その9月2日条に、弘前藩が7月に願い出た弘前城二の丸未申櫓の修補が許可される経緯が記されている。
 武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられていた。諸大名が城郭の修復普請を行う場合には、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく記載された。
 申請をうけた幕府側は、老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。
 嘉永3年の申請の場合、7月19日に月番老中牧野備前守忠雅(ただまさ)の屋敷に弘前藩留守居役(るすいやく)の北川六左衛門が赴き、大破した櫓とその土台である石垣の孕みの修復を願い出る願書と、修復する櫓の位置を明示する絵図が提出され、7月26日に前日付で老中の阿部伊勢守正弘・松平和泉守乗全(のりやす)・松平伊賀守忠優(ただます)・牧野忠雅が連署した老中連署奉書が下付され、願い通り修補が許可されている。(千葉一大)
【参考文献】
弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年)
弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年)
松平(上野)秀治「記録」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年)
羽賀与七郎「弘前藩庁日記」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年)
藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年)
白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年)
三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年)
小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 津軽家-35
管理記号 TK215-1-3121
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 城郭補修資料
資料分類(大分類) 津軽家文書
資料分類(中分類) 弘前藩庁日記
資料分類(小分類)
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自治体史掲載
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