毛人

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このエミシについて、漢字では、七世紀初めころまで「毛人」と表記していたようである。その最古の用例は、中国の昇明二年(四七八)に、日本から南朝・宋の順帝に差し出された、著名な倭王武(わおうぶ)(雄略天皇)の上表文に、大和政権の版図を示すものとして、

封国は偏遠にして藩を外になす。昔より祖禰(そでい)みずから甲胄(かっちゅう)を擐(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

とみえるものである(写真6)。この上表文は、大変立派な漢文で書かれているので、はたしてこれを書いた者が日本人であるかどうか、いささか疑問ではある。その堂々たる書出しや随所の修辞は見事で、「昔より云々」などは『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』を典拠としているから、当時の代表的な漢籍に通じた者の手になることは明らかである。

写真6『宋書倭国伝』「毛人」の表記

 これが、漢語・漢文の技法に通じた帰化人の手によって日本で書かれたものだとすれば、まぎれもなく当時、日本で東北地方の人々を指して、「毛人」と呼んでいたことの明証であるし、あるいは中国側で正史に記載する際に美文調に整形されたものだとしても、当時の日本の東北地方に住む人々について「毛人」と見なす認識があったことを示すことには変わりがなかろう。
 この「毛人」という表記は、中国の古典に早くからみえるもので、日本での用例もその借用であることはまちがいあるまい。たとえば中国現存最古(一部は戦国時代まで遡るという)の地理書である『山海経(せんがいきょう)』の「海外東経」に、中国の東北方面に「毛民」の国があり、そこに多毛の人が住んでいるとあるが(写真7)、それにつけられた晋(しん)代の郭璞(かくはく)の註によると、その地に住む「毛人」は背丈が低く、体毛は猪のごとくで、穴に住み、衣服などない、などと書かれている。また紀元前二世紀の人、淮南(わいなん)王劉安(りゅうあん)の手になる『淮南子(えなんじ)』墬形(ちけい)訓にも、やはり中国の東北方に「毛民」が住むといい、それにつけられた高誘(こうゆう)(著名な馬融(ばゆう)の孫弟子)の註にも、人体多毛な人であることが述べられている。

写真7『山海経』海外東経にみえる毛人等

 つまり毛人とは、こうした多毛な人々のことを指して呼んだ、中国古典上の言葉なのである。もちろんこれは空想上の国であって、実在したわけではない。あくまでも中国中原に住む人々の辺境観念のなかの話である。それが、倭王武の上表文が書かれた五世紀には、すでに日本にも伝わっていた可能性が高い。
 なお中国では、日本の東ないし北の異民族の国を、ずっと後まで「毛人之国」(『旧唐書(くとうじょ)』巻一九九)・「毛国」(『参天台五臺山記(さんてんだいごだいさんき)』巻四)などと呼びならわしていた。倭王武の上表文も、こうした中国の伝統的用法に連なるものなのである。
 ちなみに日本では、この毛人という用字は、八世紀から九世紀初めにかけて、人名に盛んに使用された。それは東方の勇猛な人を意味する語句として形式化され、よく知られていたようで、下は奴隷から上は高級官僚に至るまで、全国各地(現在知られるだけでも、山背(やましろ)・播磨(はりま)・讃岐(さぬき)国などにみられる)で、広く名づけられたものである。蘇我蝦夷(『日本書紀』ではこう表記されるが、あるいは元来の表記は蘇我毛人か)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)(写真8)などの例がよく知られている。

写真8 造東大寺司沙金奉請文
佐伯今毛人の自署がみえる。

 古代人は、この文字ないしその「エミシ」という音に差別的な、悪い意味は感じていなかったのである。