さて右の比羅夫と粛慎との接触の在り方は、早く新井白石以来、言葉が通じない未知の種族どうしのあいだでの、一種の物々交換である「沈黙交易」と呼ばれているスタイルの交渉の事例としてよく知られている。白石は『蝦夷志(えぞし)』において近世アイヌ社会でも同様の事例があることを述べている。
ただこの比羅夫と粛慎との接触の場合については、比羅夫が一方的に物資を提示しているだけであって、比羅夫が欲したのは「講和・服従」であるから、これは沈黙交易的なスタイルを借りた服属要求であるとする学説もある。もっとも、老人は着てきた服を脱いで比羅夫の用意した単衫に着替えているので、老人の着てきた服が北方特有の毛皮でできているとすれば、これは立派な交易であった可能性もある。
いずれにしろこの初めての接触が成功すれば、以後、平和な交渉が始まったのであろうが、ここでは失敗したわけである。
ちなみにこのときの交易の対象である布と鉄は、のちに触れる羆や海獣の皮とあわせて、以後も北方交易における主要な物品であったことは注目される。あるいはこの岩木川河口付近は、中世の十三湊がそうであったように北方と南方との交易の拠点で、渡嶋蝦夷と粛慎とのあいだにもすでに交流があり、このときは交易の交渉のもつれから両者の間が険悪になっていたのかもしれない。
しかもここでは粛慎(あしはせ)は鉄ではなくて布を選んでいることも興味深い。兵器を選べば好戦的であるとされ、交渉の妨げになる可能性もあるから選ばなかったのかもしれないが、(蝦夷とは異なり)鉄を選ばなかったということは、粛慎がすでに北の世界で別のルートでそれを十分得ていることを示している。このことはのちに触れる粛慎の正体を考える上で重要な点である。ちょうど沿海州アムール川流域では、鉄器文化を有する靺鞨(まっかつ)文化が展開していた時代に相当する。