征夷大将軍大伴弟麻呂

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翌延暦九年(七九〇)、政府はただちに第二回目の胆沢征討の準備に入った(史料二一一以下)。革甲(かわのよろい)二〇〇〇領の準備に三年かけるとあるから、延暦十二年ころからの征討再開を政府は考えていたらしい。今度こそという意気込みで、時間をかけた慎重な準備体制を整えたのである。
 実際に次の「征東使」改め「征夷使」(史料二二五)である大伴弟(乙)麻呂(おおとものおとまろ)が、全権委任を示す節刀を賜ったのは、延暦十三年正月元日のことであった(史料二二七)。これまで征東大使は征東大将軍と呼ばれることがあったので、この征夷大使弟麻呂征夷大将軍と呼ばれることになった。これがのちに武士が幕府を開く際に必要な資格とされる征夷大将軍の史料上の初見である。こうして用意された兵力は前回に倍する一〇万人であったという(史料二七六)。
 そしてこのときの副将軍に、「赤面黄髭、勇力人にすぐ」といわれた坂上田村麻呂がいる(史料二一七、写真47)。当時三七歳。おそらくこの征夷軍の実質的な指揮官として活躍したものと思われるが、残念ながらこの時代については、正史『日本後紀』が失われていて、その省略文などからなる『日本紀略』しか残っていないため、詳細は明かではない。

写真47 坂上田村麻呂

 ただこの段階ではまだ阿弖流為を倒すことはかなっていない。この年十月の弟麻呂からの戦況報告によると、斬首四五七級、捕虜一五〇人、奪った馬は八五匹、焼き討ちした村落は七五処であったという(史料二三二)。弟麻呂らは翌年正月に帰京した(史料二三三)。わざわざ馬の数を書き並べているところに、のちに「糠部(ぬかのぶ)の駿馬」として名高くなる、この地方の名馬ぶりがうかがえるであろう。