一〇世紀は、中央政府による大規模な征夷事業が九世紀で終焉を迎えたことを受けて、北の世界の支配の在り方が、さまざまな面で大きく転換していく時期である。
そもそも中央政界でも、この時代には律令国家が大きく変容していくのである。律令法という、中国大陸のような広大な世界帝国を支配するために生まれた、前近代史上稀(まれ)にみる精致な法体系によって運用された、天皇を中心とする中央集権的な律令国家はもはやその維持が困難になり、中央政府は、地方からの収入さえ得られれば、その政治の実態には気を使わなくなるような時代が到来する。まさに日本古代史上の画期である。
こうした国家段階を、学者によっては「王朝国家」と名づけ、その論理体系を「王朝国家論」と呼ぶことがある。これは中世史の研究者が提示した時代区分論であって、古代国家が中世国家に変わるという過渡期について、中世の側に引きつけてその時代を区分したものである。だいたい一〇世紀ころをその始まりに位置づける学者が多い。
普通の高校日本史の授業では、あの著名な王朝貴族の代表である藤原道長の生きた一〇世紀とか一一世紀を、「中世」として教えることはあまりないであろう。しかしこれは決して驚くべきことではない。一〇世紀から中世だという場合には、それは社会の下部構造が、まさしく中世的に変化しているからである。
たしかにこの時代には、社会の上部構造を見ると、天皇や院や摂関家に代表される貴族など、古代的な支配構造は厳然として存在している。そこはまぎれもなく古代的な世界である。ところがそうした古代的な権門に支配されている社会の下部構造はというと、このころ極めて中世的になっているといわざるを得ない。
ただこの「王朝国家」という名称は必ずしも実態にふさわしいものではなく、誤解を招きやすい。律令国家を古代前期とすれば、古代後期に相当する時代であるが、いわゆる摂関政治の時代でもある。