古代律令制というのは基本的に支配の基準を、戸籍を基準とした、人(戸)に置くわけであるが、一〇世紀には戸籍はもはや作られなくなり、それが中世的な「名(みょう)」という土地を基準とした支配方式に変化している。土地は人と違って固定的な存在であるので、台帳に載せやすい。「名」は中世の荘園や国衙領(こくがりょう)を構成する徴税のための基本単位である。そういう中世的な土地を支配する体制が、早くも一〇世紀にはかなり普遍的に地方支配のなかに及んでいるのである。支配基準の「人から土地へ」の変化、これが歴史の大きな流れであった。
それは中央政府が地方政治の内実にほとんど関心を示さなくなってきたことから生じているのであって、中央政府としては、地方から収入さえ入ればよい、税金さえきちんと徴収できれば、地方政治の実際の在り方は、地方官の好きなようにしてかまわないという態度をとるようになっていった。こうして地方官が実入りの大きいものになると、その地位は売買の対象とすらなっていった。
つまり中央政府は地方を任せた国司に対して、その政治に口を出さなくなり、国司から中央への貢納物さえ全うされればそれで良しとするような時代になったのである。中央政府-国司レベルの制度や政策と、国司-農民レベルでの制度や政策との間に大きなギャップが生じるようになっていった。中央政府はとにかく収入さえ得られれば、その収入をどのような手段で国司が農民から搾取し、またその陰でいかに私腹を肥やしていようと、いっさい意に介さなくなっていったのである。
こういった地方政治の実際と中央政府の政策とが乖離(かいり)するというなかで、古代から中世へと時代が大きく変わっていく。まさに下から国家が変わっていき、下の方から中世的世界になっていったのである。
これがいわゆる日本史の時代区分の一つの有力な仮説である「王朝国家論」の概要である。先にも触れたように、これは中世史研究者の側から提起されたので、その命名も含めて、古代史の研究者の間では必ずしも受け入れられてはいない部分があるが、理論としてはともかく、歴史の流れとしては、おおむね了解を得られているといってよい。
つまり一〇世紀からのちというのは、中央政府が地方政策を放棄する時代であったといっても過言ではない。地方政治は、中央から現地に派遣された地方官、ないしその代理人として現地に下っていた(それにはいろいろなレベルの人間がいるが)現地支配者らがそれをやる。地方政策のすべてが、そういった人々に任ぜられる時代となっていったのである。