狄坂丸の乱

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天慶の乱の後には、天暦(てんりゃく)元年(九四七)の、「狄坂丸(てきのさかまる)」による鎮守府将軍関係者の殺害事件(史料三八一)が起こっている。「狄」とあることや鎮守府将軍の管轄範囲から考えて、坂丸は米代川上流地域の族長であった可能性が高いとされているが詳細は明らかではない。ただ狄であっても、すでに坂丸と和風の名がつけられていることは興味深い。
 またこのときには坂丸が「軍士を徴発し兵糧を舂運(しょううん)した」とあって、彼らが兵士動員のシステムを有していたことが注目される。この時代、すでに東北地方の兵力も、在地の豪族たちに頼らざるを得ない事態になっていたのである。
 この事件を最後に、前九年合戦の勃発までのあいだ、中央の記録には北の世界の反乱についての記事がみえなくなる。これは、特別受領官鎮守府将軍・出羽城介体制の確立によって、平和がもたらされたのだとも評価されている。