さてこうして頼義が無事に公務を終えて陸奥国府多賀城への帰途に着いたところ、阿久利(あくり)川(宮城県北部か。未詳)で夜営中に、陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞(みつさだ)・元貞(もとさだ)らが襲われるという事件が起こった(史料四四〇)。犯人と目されたのは頼時の長男貞任(さだとう)で、貞任は先年、光貞の妹を娶(めと)ろうとして、家柄の卑しさから断られたことを恥じていたのだという。
頼義は怒って貞任を召し捕るように命じたが、頼時は「人倫の世にあるは皆妻子のためなり。貞任愚かなりといえども、父子の愛は棄て忘るることあたわず」という名言を吐いて、貞任を差し出すことを拒否し、さらに衣川関を閉じて道を断ってしまったのである。ここにふたたびこの地に合戦が起こることとなった。
頼義軍についていた平永衡は、銀の冑をかぶったことが、頼時軍から射られないための目印ではないかと疑われて味方に殺害されたが、藤原経清は争乱のなかで巧みに逃れて、頼時軍に合流した。