ところがここで国衡にとってはまったく予想外のことが起こった。朝霧のなか、突然、大木戸の国衡の陣の背後の山上から鬨(とき)の声が挙がり、大量の矢が射掛けられてきたのである。まさか背後から敵があらわれるとは夢にも考えていなかった奥州軍は、搦手(からめて)が破られたものと信じて、城中大騒動のうちに総崩れとなってしまった。この「鳥取越え」の奇襲こそが、鎌倉方の勝利を決定づけたといってもよい。奇襲参加者の功績は絶大である(『吾妻鏡』)。
これは九日の夜、「安藤次」というものを山案内者として、甲(よろい)を負い馬を牽(ひ)きながら、密かに会津の方に向かった小山朝光以下の七名によってなされた。地元の研究者によれば、そのルートは、近世の羽州街道の小坂(こさか)峠越えから白石川に至り、その支流七里沢川沿いの間道伝いに阿津賀志山を大きく迂回(うかい)し、貝田(かいだ)峠を越えて姥上沢(おばかみさわ)川にそって貝田に下り、国衡後陣の山上に至ったものであると見られている。
ここで注目されるのが、奇襲の道案内をした安藤次なるものの存在である。この人物は奥州一円の山や海を舞台に広く活動していた津軽安藤氏の同族と推定されている。当然、このあたりの裏道にも十分通じていた。鎌倉方の道案内をするということは、奥州方への裏切り行為ともいえるのであるが、海運や商品流通に深くかかわる安藤氏ゆえの商人的な見通しの確かさ、あるいは変り身の早さがそうさせたのであろう。
なおこの奇襲に参加した七人はいずれも身分の低い者たちであったが、のちの論功行賞の場において、頼朝は自ら彼らに言葉を賜り、旗などを下賜(かし)している。