曽我光弘とその妻

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惟重と伊豆田所女房の子が弥二郎光弘である。嘉禎三年「北条泰時袖判下文」(史料五六一)に「弥二郎」とあるが、延応元年(一二三九)「北条泰時書下状」(史料五六五)、仁治三年(一二四二)「北条時頼袖判下文」(史料五七三)では「光弘」とある。曽我系図の宝治元年(一二四七)「北条時頼袖判下文」(遠野南部家文書)では「光広」と見え、またのちの建武元年頃のものと推定される「曽我光高申状」(史料六五八・写真120)では「弥二郎入道光信」とも記されているが、いずれも同一人物であろう。

写真120 曽我光高申状

 またその妻は、光弘死後「後家尼」と呼ばれ(史料五八〇)、おそらく一期分として岩楯(館)村の地頭代職を伝領した。