光弘は宝治元年(一二四七)七月、宝治合戦の勲功の賞として陸奥国名取郡土師塚(はじづか)郷地頭代職を与えられた(斎藤文書、遠野南部家文書)。しかしこの所領のことは、以後、文書にはみえなくなるので、のちにやはり宝治合戦の勲功の賞として与えられたと光高によって主張される、近在の四郎丸(しろうまる)郷と同一地のことかもしれない。
名取郡四郎丸郷のことは、嘉元二年の泰光の譲状に、「四郎丸うち、泰光かちきやうふん(知行分)」を「一ふんもよけす」嫡子光頼に譲渡した地として、その名が初めてみえる(史料五九六)。ここでは相伝の所領の一つとしてあらわれ、宝治合戦勲功の賞のことには触れられていない。
嘉暦二年の光頼の光高に対する譲状では、「四郎丸郷おたかせの村」を譲渡している(史料六二七)。これら「四郎丸うち、泰光かちきやうふん」と「四郎丸郷おたかせの村」とが同一なのか、あるいは四郎丸郷内の泰光知行分の一部を指すのかについては明確ではない。