元弘三年から翌年初めにかけて、ついに大光寺楯を中心に朝廷方と幕府方との間で戦いが始まった。朝廷方合戦奉行は早河禅門(ぜんもん)、それに工藤貞行(さだゆき)・尾張弾正左衛門らがしたがった。曽我光高も一族郎等とともに「半死半生」の手傷を負いながら奮戦し、勝利に貢献したようである(史料六三〇・六三一)。光高は戦後ただちに全所領の安堵を申し出ている(史料六三二・六三三)。これは今後の戦闘に備えて、一族の意気を高めるためにもどうしても必要なことであったろう。
またこの光高は、北条方が小鹿島・秋田城に楯を築いて抵抗し、矢立峠あたりから津軽方面に侵入する動きを示したのに対し、「国中給主御家人」を大阿尓(大鰐)に集めて防戦しようとしている(史料六三二)。