建物の変化

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掘立柱建物の母屋の場合は、柱と柱の間の寸法つまり間尺と平面形によって年代の推定ができる。津軽地域に限ってみても、一二世紀から一三世紀にかけては、八尺から七尺を主体とする間尺で平面形が庇を有する寝殿造りの形態であるのに対し、一四世紀から一五世紀には六尺・七尺・八尺と多様な間尺になり平面形も曲屋風の形態も出現し、一五世紀ごろから六尺六寸を中心として一定の間尺を使用して書院造りの平面形を有する傾向が認められる。
 このような母屋の動きに対して付属屋の動きは連動せず、あくまでも庇(ひさし)を有しない長屋風の建物が主流である。掘立柱建物の倉庫に関しては、基本的に柱が総柱になって、重量を支える構造を有し、間尺の相違はあるものの基本的な構造は変わらない。
 母屋だけを各時代別に抽出して提示すると図54のようになる。

図54 掘立柱建物(母屋)の変遷(高島成侑氏原図)

 このような建物の在り方は城館という遺跡の例が多く、一般的な集落、つまり「ムラ」の建物跡がどのようなものであったのか見極めは難しい。城館の場合は、明確な防御的施設である堀や、土塁が存在するから「城館」という概念で調査できるが、もしそのような防御施設を有しない事例を一般集落と想定すると、現状ではごく限られた調査例しかなくなる。
 たとえば、最初に中世の竪穴建物跡と認定した市浦村二ツ沼(ふたつぬま)遺跡のように、掘立柱建物がまったくなくて竪穴建物だけで構成されている遺跡が一般的集落だとすると、城館の一部にも竪穴建物だけで構成する範囲が認められることから、城館と集落の境が見出しにくくなってしまう。