戦国時代には、野戦や攻城戦などの本格的な武力抗争以外にもさまざまな小競り合いが頻発していた。そのなかでもとくに行われたものとして「刈田(かりた)」がある。敵方の兵糧を断ち、味方の兵糧を調達するという意味もあって、敵地に赴き、実った稲を刈り取ってしまったり、青田のうちに刈り捨ててしまうこともあった。
津軽領内の文献史料ではないが、南部氏側史料「東政勝(ひがしまさかつ)書状写」(史料九八五)の中に元亀年間(一五七〇~七二)のこととして「見吉(剣吉)を手始めを致され候に付いて、日々御取り合い致し候、昨日も四戸殿人馬別に馬を立てられ候(中略)二階のにを(乳穂)悉(ことごと)く焼かせられ候」というように記している。要約すると二段に乾燥させていた稲をことごとく焼かせた、というもので当時の生々しい状況が伝えられている。また「南部晴政書状」(史料九八一)にも「今日も斗賀(とが)の作を流させ申し候」ということが書かれている。斗賀(現名川町大字斗賀)という剣吉(現名川町大字剣吉)の下手に位置する馬淵(まべち)川の左岸部分で、作物(畑作物と思われるもの)を川に流させたというものである。これは、南部晴政・信直の継嗣をめぐる内訌の記録で、このような戦略は派手ではないが、敵方に与える影響は決して少ないものではなかったといえる。