天和二年(一六八二)の「唐竹村書上」によって次のことが知られる。大晦日から元旦の朝までの食事は、「手前少能者(てまえすこしよきもの)」(本百姓(ほんびゃくしょう)程度か)は鱈二匹・塩引(しおびき)(鮭(さけ)の塩漬け)一匹・田作魚(ごまめ)一升を用意し、酒は一斗二~三升も醸造した。田作魚は片口鰯を真水で洗って干したもので、まめ(健全)の意の連想から祝儀・正月の料理などに用いられる。「不叶者(かなわざるもの)」(水呑百姓程度か)は一升の酒を買える程度であった。ただし主食は米だけの飯であったかは明らかでない。