感応寺

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感応寺(かんのうじ)は、「旧記録」によれば、三森村(みつもりむら)(現市内)の鎮守観音堂が衰退していたのを本行寺七世日義が再興、七面堂を建立し、日成を住職としたとする。「重宝錦嚢」は、元和八年(一六二二)、本行寺三世日意が再興し、元文五年(一七四〇)、独狐村(とっこむら)(同前)へ移ったとする。『新撰陸奥国誌』は、元文五年、日貞の再興とし、七面堂・日蓮堂・清正公堂があったという。