十年四月に開校された弘前高等学校では開設以来理科文科の両学生は確執を続けていたが、翌十一年十月一日校内運動会五千米競争に端を発し審判上に就て両科睨み合ひ昂奮した一文科生徒は競技用の槍で理科生徒の臀部を突き刺したので殴り合ひとなったが、職員の仲裁で其の場はどうやら納ったが、暴行学生の処分に関して軽きに失すると理科学生は再び憤慨し平素理科学生に対する職員の不親切も不平の一つとなって一時に反感は爆発し、九日より同科百八十四名は盟休し処罰の責任者たる庄司生徒監の弾劾を決議し陳情書を作成して秋田校長に回答を迫った。然るに同校長は根拠が薄弱なりと突返して学生の自重を期待しつゝ形勢を観望するの策に出て取り合はない為めに、盟休学生は自滅の形となり数名の軟派学生の登校で結束は破れ十四日より登校したが一先ず学校当局は三名を放校、百二十六名を停学に処しその他は戒飭(かいちょく)し間もなく停学を解き登校を許した。