人的資源の動員と健民運動

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当初健民運動は国民の体力向上を意図し、弘前市も含む青森県や東北地方にとって、恐慌・凶作対策としての意味合いも兼ねていた。だが日中戦争の勃発以降は人員動員システムとしての性格を強めた。厚生省は昭和十五年(一九四〇)、健民運動を「人的資源ノ確保ニ努ムルハ戦時下国策中最モ緊要ナル施策」と位置づけた。乳幼児と母性保護指導に「最モ力ヲ致スコト」とし、乳幼児の健全な発育を「国家興隆ノ前提」と見なした。そのため「従来ノ地方的放任状態ヲ一擲シ国家的組織体ニ一躍シ」ようとしたのである(資料近・現代2No.九五参照)。
 弘前市でも厚生省の指示を受けて、乳幼児体力向上奨励週間を実施したが、市長は市が「国策ニ呼応シ滞リナク」業務を進め「一段ト光彩アル成果ヲ納得」したと積極評価している。健民運動は市町村行政の重要施策として位置づけられ、婦人団体の協力も要請された。見逃せないのは医学界への協力要請である。健民運動には医者の関与と協力が不可欠である。乳幼児体力向上奨励週間などでも、市長は審査員として「市内一流ノ医師ニ出場ヲ求メ献身的奉仕ヲ致シテ貰フ事」を要請している。戦後、弘前大学医学部を中心に医学都市を目指す弘前市だが、健民運動からも医学界と市の密接な関係が理解できるのではないだろうか(同前参照)。
 健民運動は人間の生死に関わる問題まで国家が介入してきたことを意味した。国の命令が県に、そして市町村に下達されるにしたがい、健民運動隣組など行政組織の末端にまで浸透し、庶民の重要な義務として励行された。個人の健康や体力が管理され、他者と比較され優劣を競わされるのは、差別的思想を生むことにもなる。当然、病人や虚弱者は国家に不利益と見なされ、厄介者扱いされる傾向を生み出した。