勤労奉仕の始まり

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事変の拡大で国内の人手不足が目立ってきた。それを緩和するため、中等学校生徒ばかりでなく、小学校児童たちによる勤労奉仕作業が行われるようになった。十三年(一九三八)八月、弘前市では南塘グラウンド(現弘前大学医学部グラウンド)の西南を流れる川筋を変更してグラウンドの拡張を図った。しかし、人手不足で人夫が集まらず、小学校児童及び青年学校生徒の集団勤労作業によって工事を進めることになり、市内各小学校に作業を割り当てた。作業は幅二間半(四・五四メートル)、深さ五尺五寸(一・六六メートル)、長さ七間(一二・七メートル)の土掘工事で、八月一日から各小学校五・六年男子児童が二日ずつ行った。慣れない作業で児童たちは苦労したが、工事は無事完了した。この後小学校児童の勤労作業がしばしば行われるようになった。

写真54 児童の勤労奉仕