大正期以降、国民の上昇する進学要求の充足を目指して量的拡大を続けてきた専門学校教育は、昭和十三年の「
国家総動員法」の施行に象徴される国を挙げての戦時体制への突入によって、大きくその方向の転換を余儀なくされた。すなわち、戦時下での緊急の人材需要の充足という、国家の要請の充足を目的に全国的に新増設されていくのである。昭和十四年には、科学技術教育の振興への要請に応え、
工業技術者育成を目的に高等
工業学校が全国七ヵ所に設置されるとともに、戦線の拡大や植民地経営上の必要により医師養成の急増が求められ、七帝大医学部と六官立医科大学のすべてに「臨時附属医学専門部」が設置された。さらに、対米開戦後には医学専門学校の新設が相次ぎ(前橋〔昭和十八年〕、松本〔同十九年〕)、米子・徳島〔同二十年〕)、青森県においては青森医学専門学校が「戦時要員としての医師養成」を目的に昭和十九年三月二十八日に青森市に設立された。初代校長には東北帝国大学医学部教授
丸井清泰が就任した。開校式は同年五月一日、同校講堂で挙行された。校舎は野脇
国民学校を使用、附属病院には県立病院が充てられたが、二十年七月の米軍空襲で附属病院、寄宿舎を焼失した。
写真75 創立のころの青森医学専門学校