昭和二十四年十月十二日午前四時二分ごろ、時敏小学校南側校舎から出火、一五教室を全半焼して鎮火した・同校職員が防火壁を降ろしたのが功を奏し、南側校舎を焼失しただけで北側校舎が残ったのは不幸中の幸いであった。原因は判明せず、不審火と騒がれた。同校ではとりあえず二部授業を行い急場をしのいだ。
時敏小学校の火事騒ぎがまだ収まらない十月二十三日午前四時五十分ごろ、今度は朝陽小学校(現弘前税務署敷地)から出火、消火活動に務めたが、水圧弱くポンプの放水が不十分で、給食炊事室及び半焼の小屋を残して校舎は烏有(うゆう)に帰した。同校では一学年から四学年までを市公会堂に収容、五、六学年は桔梗野小学校の余裕教室を借用して二部授業を行った。
時敏・朝陽両校とも出火の状況は全く同様であった。出火場所が火気のない教室だったこと、出火時間がほとんど同じだったことなどである。しかも十日足らずの間の二校の火災に、巷間(こうかん)放火のうわさが高く、各校とも火災を恐れて戦々兢々(きょうきょう)たるありさまであった。
度重なる学校火災に、市当局は十月二十四日「職員当直を三名として交替見廻りすべき旨」通牒(ちょう)を発したため、同日から各校とも教員二人、小使一人の三人を宿直として不寝番に当たらせた。しかし、連日三人の職員が不寝番に当たるのでは、健康上にも学校運営上にも支障があると判断した校長会は、十月二十九日から消防団による不寝番と学校巡視を要請したため、学校職員の不寝番は二十八日で打ち切りになった。
事態を重視した市当局が、市内小中学校一〇校に夜警二人を置いたのは十一月十六日からである。夜警二人は宿直員とともに校舎内外の警備に当たったが、その後、幸い学校の火災はなく、翌年三月末をもって夜警は廃止となった。